■横溝正史『仮面舞踏会』(その2)
「横溝正史『仮面舞踏会』(その1)」(掲載日:2014年3月10日(月))のつづき。
僕が横溝作品についてこのブログに記事を書くとき、テキスト批判をすることがしばしばである。
テキスト批判というのは「テキストクリティーク」といったほうがわかるひとには誤解がないと思うのだが、ものすごく乱暴にいえば、これは書かれている内容についてあれこれと解釈をめぐらすことではなく、テキストの字句の確定をめぐって丁寧に検討することを意味する。(字句を確定する作業が内容の読解と無関係に存立するものではないということについてはふれない。)
およそ言語で書かれた作品に向き合うにあたって僕が関心を振り向けたいのは《内容》のほうである。
僕はテキストクリティークが趣味なのではなく、あくまでも物語の展開をおいながら、登場人物の行動を思い描くとともに、登場人物の感情の揺れ動きを追体験したいと思っている。
しかし、今回も《内容》をつたえる《形式》の面でテキストの批判をしないわけにいかない事例を目にしたので、それをここではっきり記録しておきたい。
ちなみに、僕が読んだのは角川文庫であり、僕の批判はおもにこの角川文庫のテキストにむけられるものである。
その角川文庫の表紙と奥付はつぎのとおり。
(クリックすると、ポップアップで大きな画像が表示されます。以下、すべて同じです。)
みてわかるように、これは「金田一耕助ファイル17」として位置づけられるものである。初版、改版の点では「1976年8月30日初版、1996年9月25日改版初版」であり、僕の手もとにあるのは「2013年7月5日改版22版」である(*注4)。
この記事ではさらにKindle版、講談社版、出版芸術社版に言及する。
それらの表紙と奥付はつぎのとおりである。
講談社版
以上のよっつのテキストを、書誌情報を定型的にしめしながら、出版年の順番に並べるとつぎのとおり。
横溝正史『仮面舞踏会(新版横溝正史全集17)』講談社、1976年
横溝正史『金田一耕助ファイル17 仮面舞踏会』角川文庫、1976年初版、1996年改版
横溝正史『仮面舞踏会』角川e文庫、2002年
横溝正史『横溝正史自選集7 仮面舞踏会』出版芸術社、2007年
この記事ではそれぞれ、講談社版、角川文庫版、Kindle版、出版芸術社版と呼ぶことにする。
本作『仮面舞踏会』では、ある人物の先天的な特性をめぐって、「マッチ棒」が推理の展開に重要な役割をもっている。
《緑》と《朱》という、頭の色がちがう二種類のマッチ棒があり、それぞれが《完全なマッチ棒》と《折れ曲がったマッチ棒》の二種類の形態の違いをあたえられている。都合、《完全・緑》《折れ・緑》《完全・朱》《折れ・朱》という4種のマッチ棒があるのだが、その4種のマッチ棒を記述する箇所で《活字》の誤植がある。
はじめに角川文庫版の該当箇所のスキャン画像をしめそう。
(赤ペンは僕の落書きである。スキャンするために新しい本を入手するのもバカらしい。ゆえに、落書きのあるまま、ここに掲示してしまう。)
角川文庫版によると、
《完全・緑》:白丸の♂
《折れ・緑》:黒丸の♂
《完全・朱》:白丸の♀
《折れ・朱》:白丸の♀
これでは、《完全・朱》と《折れ・朱》の区別がつかない。(読めば、わかるけれど。)
ちなみに、角川には電子書籍でKindle版があるが、Kindle版の該当箇所は紙の版と同一ではない。Kindle版で誤植の問題が解消したのではない。Kindle版はKindle版で活字の誤植を有している。それは、紙の版におけるそれと同種ではあるが、微妙に違ったかたちでの誤植である。
Kindle版では、
《完全・緑》:黒丸の♂
《折れ・緑》:白丸の♂
《完全・朱》:白丸の♀
《折れ・朱》:白丸の♀
黒丸の♂と白丸の♂が入れ替わってしまった。そして、あいかわらず、《完全・朱》と《折れ・朱》の区別はつかない。
このように、角川には角川文庫にもKindle版にも《活字》の誤植があり、《活字》を素直に追っていくと、中身を矛盾なく把握することはできなくなる。(読めば、わかるけど。)
この点で角川のテキストは信用できない。
では、他の出版社ではどうなっているのか。
講談社版はつぎのとおり。
《完全・緑》:白丸の♂
《折れ・緑》:黒丸の♂
《完全・朱》:白丸の♀
《折れ・朱》:目玉の♀
4種のマッチがしっかり区別できる。
出版芸術社版はつぎのとおり。
《完全・緑》:白丸の♂
《折れ・緑》:黒丸の♂
《完全・朱》:白丸の♀
《折れ・朱》:目玉の♀
4種のマッチがしっかり区別できる。(記号の割り当てかたは講談社版と同一である。)
うえで角川を批判したが、次に述べることは、角川文庫版を議論の出発点にすえるが、けっして角川だけを批判するものではない。講談社版、角川文庫版、Kindle版、出版芸術社版のすべてに共通する問題である。テキスト批判というよりは、むしろ、横溝の原稿そのものの矛盾の指摘になるかもしれない。
さて、本作では4種のマッチの本数や配列にかんして言語による表現と図版による表現がなされているのだが、ふたつの表現のあいだに食い違いがある。
角川文庫の該当箇所をスキャンしながら、説明していこう。
まずはじめに、槙の死体のしたにあったマッチ棒については次の記述がある。
《完全・緑》:7本
《折れ・緑》:7本
《完全・朱》:3本
《折れ・朱》:4本
合計21本
(この段階では図と言語表現は一致。)
津村のところにあったマッチ棒はつぎのとおり。
《完全・緑》:1本
《折れ・緑》:1本
《完全・朱》:1本
合計3本
これらがあわさると、合計で24本のマッチ棒があることになる。
そして、《色盲》を説明するために槙が並べたマッチ棒の配列の全貌を忠実に記録したと推測される津村のメモはつぎのとおりである。
このメモにしるされたマッチ棒の内訳は、
《完全・緑》:8本
《折れ・緑》:9本
《完全・朱》:4本
《折れ・朱》:3本
合計24本
たしかに合計の本数は24本。
しかし、内訳に注目すると、変だ。
槙の死体のしたにあった21本と津村のところにあった3本の内訳の合計は、
《完全・緑》:8本
《折れ・緑》:8本
《完全・朱》:4本
《折れ・朱》:4本
となるはず。
折れた朱色のマッチは言語的表現では4本あるはずだが、津村のメモでは3本である。また、折れた緑色のマッチは言語的表現では8本あるはずだが、津村のメモでは9本ある。
おかしい。
横溝が手書きでしめしたであろう図がおかしかったのか、それを製版する段階でまちがえてしまったのか。
まぁ、マッチ棒の、この別荘からこの別荘への移動の経緯に関する推理はそれほど根拠のあるものではないから、槙の死体のしたにあった21本のマッチと津村のところにあった3本のマッチを合計してよいと言い切ることはできないんだよなぁ。
ちなみに、マッチ棒の数の言語的表現と図による表現については角川文庫版とKindle版は同一であるが、念のため、Kindle版の該当箇所をはりつけてみよう。
槙の死体のしたのマッチ。
津村のところにあったマッチ。
津村のメモ。
角川以外の出版社はどうだろうと思ったが、この点では講談社版、出版芸術社版ともに角川と同一だった。
くどくなるが、証拠の品として参考までに講談社版と出版芸術社版の該当箇所をここに提示しておこう。
まずは講談社版。
槙の死体のしたのマッチ。
津村のところにあったマッチ。
津村のメモ。
つぎに出版芸術社版。
槙の死体のしたにあったマッチ。
津村のところにあったマッチ。
津村のメモ。
以上。
(本作では津村の別荘に3本のマッチ棒が落ちていたことについて納得のいく説明がなされていない。したがって、これは本作の内容面での不備としていろいろとあげつらうことは可能かもしれないが、あげつらうこころみが意味をもたないように思う。そもそも推理のあちこちがそれほどの根拠をもつものではなく、飛躍があることが作中でみとめられているのだから。)
以上は活字の誤植、本文と図版との食い違いなど言語作品としての文学作品にかかわることであったが、次に述べるのは、ユーザーインターフェースにかかわることである。
次の写真をみていただこう。
これは僕の所有する角川文庫の目次の見開きを撮影したものである。
(右側の黒い物体は文鎮としてのiPhoneである。)
接着剤のつき具合からすると、表紙の厚紙の開き方はこのぐらいが自然であり、このあたりで自然に折れ曲がってしまう。そして、このぐらいの開き方では目次は次のような姿で視界にはいってくる。
「第十三章」がみえない。
もちろん、ちょっと角度をかえれば、次のようになり、「第十三章 目撃者」を読むことはできる。
あるいは、もっと大きくページを開くことで、活字をしっかり目にすることもできるだろう。限界までページを開くと、次のような姿で目次ページが視界にはいってくる。
うん、これなら、全部の活字を真上から読むことができる。
が、中心線に切り込みの断面のボツボツがみえる。
そのボツボツのまぢかに「青酸加里」のルビの「せいさんかり」が印刷されている。
これは読者に読みづらい。
見る角度をかえるとか、ギリギリまでページをひらくとかすれば、活字は読める。それは知的にも身体運動的にも容易ではある。
しかし、これはレイアウトの段階で中心線からもうすこし離して文字を配置すれば良かっただけのことだ。
この角川文庫には読者に読みやすい本を提供するという本作りの一つの要素への配慮がかけている。
本はどのような機能をもつべきなのか。本の機能とはいったいなんなのか。
こういうことへの目配せのない《デザイン》はデザイン失格である。
みずからのデザイン失格を露呈しているページによくもまあヌケヌケとクレジットをいれていること。
「本文デザイン 天下井教子+エーダッシュ」。
みていて、情けなくなる。
角川には出版人としての資質が欠落しているんだなぁと、あらためて思った次第。
本作を読み終えての感想記事をこのブログに掲載しようとしたときのはじめの構想では、以上で締めにするつもりであった。
が、この構想を満たすために、講談社版と出版芸術社版のテキストを図書館に借りにいき、中身をパラパラめくったら、あることに気がついた。
それは献辞の文言の違いである。
どうでもよいことなら、予定通り、ここで記事をおえてしまっても良かったのだが、これはけっこう重要なことであると思うので、予定を変更して、このことも書き足しておくことにした。
まず。
角川文庫版には次の献辞が印刷されている。
Kindle版は次のとおり。
角川は角川文庫版、Kindle版ともに「――江戸川乱歩に捧ぐ――」となっている。
が、講談社版はつぎのとおり。
出版芸術社版はつぎのとおり。
講談社版と出版芸術社版では「つねにわが側なる江戸川乱歩に捧ぐ」。
横溝と江戸川乱歩の関係については僕は付け焼き刃的なことしか知らないから、その関係についてここでなにか書くことはしない。
しかし、「つねにわが側なる」があるのとないのとでは、江戸川乱歩にたいする横溝の態度がおおきくことなってくるじゃないか。
献辞の文言のこの違いはなにに起因するのだ?
この稿、ひとまずは、以上。
*注4
元号を西暦におきかえた。
以下、この記事ではすべて西暦をもちいる。