■【演奏会の記録:2014年3月16日(日)】鈴木秀美×トウキョウ・モーツァルトプレーヤーズ vol.3
演奏会「トウキョウ・モーツァルトプレーヤーズ スペシャル・コンサート 鈴木秀美を迎えて vol.3」をききにいった。
(2014年3月16日(日)のことだ。)
トウキョウ・モーツァルトプレーヤーズスペシャル・コンサート
鈴木秀美を迎えて vol.3
弦楽オーケストラ 優美の極致に迫る
2014年3月16日(日)14:00開場 15:00開演
三鷹市芸術文化センター・風のホール
プログラム:
(僕自身がプレ・コンサートをきいていないので、それは文字では割愛)
弦楽セレナーデ ホ長調 op.22
アルノルト・シェーンベルク
浄夜 op.4 (1943年 弦楽合奏版)
指揮:鈴木秀美
管弦楽:トウキョウ・モーツァルトプレーヤーズ
(クリックすると、ポップアップで大きな画像で表示されます。以下、同じ。)
楽しみにしていた演奏会。
シェーンベルクの「浄夜」が演奏されるからだ。
「浄夜」は僕の好きな曲だ。
生演奏に接する機会があるとは思ってこなかった。
いつもなら、僕は、両側をほかの人にはさまれることのない、列のはしっこの席でチケットをとるのだが、今回はセンターの席でチケットをとった。
音のバランスを重視したからだ。
ドヴォルジャークの楽器配置は。
1stヴァイオリン、2ndヴァイオリン、チェロ、ヴィオラ。
コントラバスはチェロのうしろ。
シェーンベルクでの楽器配置は。
(同一楽器のあいだの分割があるから正確には文字では再現できない。おおよそでは。)
1stヴァイオリン、2ndヴァイオリン、チェロ、ヴィオラ。
コントラバスは2ndヴァイオリンとチェロの中間あたりのうしろ。
ヴィオラとチェロは奥行きはあさく、指揮者の周囲に広く、の配置。
ドヴォルジャークの弦楽セレナーデ。
僕はCDをもっているが、ほとんど再生しておらず、曲のイメージがほとんど記憶にない。
しかも、演奏会前の予習もしなかった。
で、ほとんど初聴にちかい状態で生演奏に接して。
へー。
こんなにいい曲だったのか…
すごくロマンティックで…
鈴木秀美さんも気持ちよさそうだ…
去年の2月に鈴木さんが同じ場でハイドンの《時計》とベートーヴェンの《英雄》をふったときとくらべると、指揮ぶりが全然違う。
きょうは一つのフレーズにあわせて、流れるように両腕が、そして、体躯がうごくこと!
(僕からみえるのは鈴木さんの後ろ姿だけなんだけれど)
去年のハイドンとベートーヴェンではもっとテンポと強弱の指示に重点をおいた、かっちりとした振り方だったと思う。(一年前の僕は、2階の席でチケットをとって、ステージを横から見おろすかたちで演奏を楽しんでいた。)
そうそう。
去年は《英雄》にききほれたんだ。
こんなに有名な曲でも僕は特に好きでもなんでもなかったから、わざわざこの曲を選んで再生するなんてことはしたことがなかった。
でも、生演奏にふれて、《英雄》が好きになっちゃったんだ。
1stヴァイオリンの奏者がよく見えるサイドだったから、おもに旋律を奏でる奏者の指と弓の動きに目を奪われて、したからわき起こってくる大音量のかっこいい旋律に感動したんだ。
とくに第4楽章にぶったまげたんだ。
《英雄》がすごくよかったから、演奏会終了後にさっそく新宿にスコアを買いにいったんだっけ。
家でスコアを眺めながら、《英雄》を何度も何度もきいたんだよな。
・・・というのは、去年の回想。
で、本日の演奏会。ドヴォルジャークが終わり、休憩。
休憩後のシェーンベルクの浄夜。
鈴木秀美さん、本当はもっともっともっとロマンティックにやりたいんじゃないかなぁ、と思った。
オケをぐあんぐあんに煽ってもいいんじゃないかなぁ。
もっと遠慮会釈ないことをしてもいいんじゃないかなぁ…。
バロック的端正さの軛…か?
僕はきょう鈴木さんにつよいロマンティックな心情を感じたわけで。
もっとそれをそとにさらけだした演奏をききたいなぁ、と思った。
この演奏会のチラシはつぎのとおり。
どうも私は『バッハ・バロック・古典派… 辺りをやるメンドクサイ人』と思われているような気がするが、何時代でも好きなものは好きである。今回の曲目は、弦楽合奏を2種類の全く異なった方法で極めたもの、どちらも想い出深く、弾くのか振るのかと大いに悩むものだ。このサイズとしては東京随一の響きの三鷹で、TMPの方々と音を練るのが待ち遠しい。(鈴木秀美)
鈴木さんは「何時代でも好きなものは好きである。」という。
うえでしるしたことの繰り返しになるが、本当は鈴木さんはいっさいの遠慮なく、とてつもないほどのロマン性で演奏をかたちづくりたかったんじゃないか・・・ でも、まだ遠慮があって、みずからのロマン性の発露をおさえてしまっているところがあるんじゃないか・・・
シェーンベルクの演奏にはそんな印象をいだいてしまった。
再演を期待する。
「浄夜」は、「ドイツロマン主義の詩人リヒャルト・デーメル(1863-1920)が1896年に出版した詩集「女と世界」に収められた詩「浄夜」に題材を得て作曲」(プログラムの「曲目解説」より)されたものである。
デーメルの詩のドイツ語原文とその日本語対訳がプログラム類と一緒に来場者に配布された。
その日本語対訳が、いつ、だれによって作成されたものなのか、クレジットがないゆえに、不明である。
翻訳をした人には敬意を表したい。
そこで、ここでは発表から100年以上経過している、デーメルのドイツ語原文の箇所だけをはりつけておく。
ドイツ語の韻文の形式については僕は無知であるが、ざっと眺めただけでも、いくつかの行がセットになって頭韻、脚韻をふんでいることはわかる。
詩である以上は音読が大前提だ。
手もとにドイツ語辞書がないから、逐語的に単語の意味をチェックすることはすぐにはできないが、このドイツ語テキストをみながら、ブツブツと詩をとなえることにしよう。
うん、新正書法だということはわかるね。
演奏のまえに鈴木秀美さんのトークがあった。
ドヴォルジャークが弦楽セレナーデを作曲したのは5月のこと。
鈴木さんはその季節のプラハを訪れたことがあるとのこと。
プラハの5月の風景が、絵画の題材になるようにうつくしいんだそうだ。
曲のこの部分はどんな風景、どんな色彩なのか、イメージを共有しながら練習をした、と。
3日間練習したといっていたな。
練習がとても楽しかったって。
それに、チェコ語とドイツ語の違い。それと音楽の関係についても。
言語と音型の相関性があることにより、幸福感のなかにひそむ、一点の無気味なものが表現されうること…など、正確な言葉での再現はできないが、興味深いお話しであった。
帰宅してから思いついたのだが。
いまの日本語では"Dvořák"にたいして「ドヴォルザーク」(あるいは「ドボルザーク」)という表記をもちいることが多いように感じるが、この公演のチラシ、プログラムでは、「ドヴォルジャーク」というカタカナ表記が採用されている。
チェコ語の発音にちかい「ドヴォルジャーク」という表記を採用したのは、鈴木秀美さんの意向なのかなぁと、ふと思った。
演奏中、プレーヤーについて気づいたのは。
親指でピツィカートをしているヴィオリストがいた…
・・・以下、回想・・・
1990年代のことになるが、サイトウキネンフェスティバルの舞台裏を取材したテレビ番組があった。
まさにシェーンベルクの「浄夜」が演奏された年のことだ。
分奏練習でのヴィオラセクションにて。
まさに「浄夜」の練習中。
岡田さんが親指でピツィカートをしていることに今井さんが気づいた。
岡田さんが親指によるピツィカートと人差し指によるピツィカートのひき比べをしてみせるのをみた同僚たちは、やんややんやの大騒ぎ。
(岡田さんは(親指のほうが大きい音が出るんだ)といっていたような。実際そうだったんだ。音が大きくて、芯のある音で。)
本番の映像を見たら、岡田さんは本番でも親指でピツィカートをしていたよな。
岡田さんは弓をもったまま親指でピツィカートをしていたんだよな。
だから、演奏する姿の見た感じが、人差し指でピツィカートをするのとは大きく異なるわけだ。
なんかそれはそれで視覚的に面白かったんだ。
みていて、おもわず、ニンマリと。
・・・回想おわり・・・
今回の演奏会で親指でピツィカートをしたヴィオリストというのは。
弓を膝のうえにおいて、親指でピツィカート。
弓をもった状態では、ほとんどの奏者がそうするように、人差し指でピツィカートをしていた。
だからなんだという気が自分でもしないわけではないが、なんか興味深かったんだ。
この演奏会については以上。