新編 膝枕

智に働きたいと思いながら、なんかやってます。

■住野よる『君の膵臓をたべたい』(双葉社)

住野よる『君の膵臓をたべたい』(双葉社、2015年6月)を読んだ。

 

* * *

 

まずはじめに、いくつかことわりがきをしておく。

 

僕自身は石川達三のような濃厚かつ重厚な心理描写の作品を好む。そして、本作を読む前の数日間、僕はほかならぬ石川達三の『風にそよぐ葦』を読んでいた。

 

なぜ僕が本作を読んだのか、これまで僕は類似のケースでその経緯を書くことが多かったが、今回はこの点への言及はしない。

 

僕は本作を、だらけることがほとんどなく、読み終えた。

 

以上はことわりがき。以下、初読を終えての感想めいたものを記録しておく。

 

* * *

 

うえのことわりがきで、「だらけることがほとんどなく」としるしたが、本書の半分ごろまでは(かるいなぁ)と思って、数字で区切られたパラグラフごとに本をとじて、ほかのことを考えたりしていた。はっきりいって「かるい」。石川達三などと比べるのが間違っているのかもしれない。たぶん書き手が若いんだろうとも思う。

 

ただ、なかなか良い着眼点で人物を造形していると思ったのは、たとえば、次のような点。最初のほうのページを繰り直して、目についたところをひくと…

(本書を読んだ人、本書を手もとに置いている人なら、すぐにわかる程度の短い引用にとどめる。必要な引用としては短すぎるのは承知のうえ)

 

「……………………ああ、そう」

「え! それだけ? なんかこう、ないの?」(p.20)

 

「いや、私も君以外の前では言わないよ。普通はひくでしょ? でも、君は凄いよ。もうすぐ死ぬっていうクラスメイトと普通に話せるんだもん。私だったら無理かもしれない。君が凄いから私は言いたいこと言ってるの」(p.31)

 

病気になったのも、もうすぐ死ぬというのも、人生を構成する日々のひとこまであり、それ以外の無数の出来事、出来事の群れと差違はない。差違があると考えることもあれば、差違がないと考えることもあるが、このどちらを選ぶかにも、価値判断の優劣、妥当性の点で差違はない。それに外側から勝手な意義付けを与えられることの迷惑さに思いをはせたことがない人にはわからないことであるかもしれないが、そうした価値判断から距離をおき、もろもろの出来事の軸をなす個別的な主体に最後まで向き合ってほしいと願う人がいる。そうした1人の女の子とはからずも向き合うことになった男の子の物語である。

 

だれかに自分の気持ちを投影して自分で満足していることの身勝手さを自覚することのないような人には、上述したような人が間違いなく存在するという事実を、本書のような小説の虚構の世界から学んでほしいと思う。そういう点では、本書は多くの人に読んでほしいと思う本である。

 

たぶん書き手はあまりにも若すぎる。が、本書はそれなりのしかたで現実をうつしとったものとしてよい作品であると思った。

 

* * *

 

僕が小説を語ろうとするとどうしても衒学的になってしまうが、ひとつだけ、本書の構成の良いところを紹介してみたい。ネタバレになるかもしれないが、未読の人がこれを知ったからと言って、本書の本質的なところとの向き合いかたがかわるわけがないから、書いても良いだろうと思う。ただ、細かく書きすぎると、衒学さがでてきて、自分でもイヤになる。だから、ほんのさわりだけ。

 

  • 《君の爪の垢を煎じて飲みたい》
  • 《君の膵臓を食べたい》

 

このふたつのフレーズがこの順番で二人の人間の意識にながれていった。これがすごくよかった。

 

ほかにもいくつかの場面、会話が別の時間、別の空間に相似形であらわれる。たぶん、映像化にむくのだろうと思う。僕は本作の映像化は望まないが、本作の構成におけるこのような相似形を見逃さない読み手には、これらを本書の登場人物の願いの、単なる思い込みではない実現形の描写として位置づけて本作の良さを根拠のあるかたちで語ることができるだろう。

 

そういう構成を本作にあたえた書き手は、それなりに考え抜いて本作をしあげたのだろう。そういう点でも本作はよいと思った。

 

抽象的な文言の締めだけれど、いまは以上。