■横溝正史『夜歩く』
横溝正史『夜歩く』を読んだ。
先日、古谷一行が金田一を演じたテレビドラマ「夜歩く」を視聴したわけだが。
その原作である本書『夜歩く』を読み始めて。
うん。
微妙にシチュエーションをかえながらも、原作のエピソードをドラマに持ち込もうとしていたんだな。
思いつくところをあげると。
守衛が蜂屋に花瓶を投げつけるとか。
八千代がよなかにフラフラ歩いているのを金田一がトイレから目撃するとか。
先日視聴したばかりの古谷一行の「夜歩く」を思い出しながら、淡々と冷静に読み進めていた。
で。
いよいよ事件解決に向かい。
「岩頭にて」(角川文庫、p.293)。
そうきたか!
意表をつかれたと同時に、このテキストの章立てにたいする疑念がわいた。
その疑念についてはあとで述べることにして・・・
あらためて・・・
そうきたか!
それまで、金田一の論理展開の前での直記の狼狽をえがきだしていた。あたかも直記こそが主犯であるかのように。そして、直記の父親である鉄之進には怒りで我を忘れさせ、息子の直記を打擲させている。
そう。
その場にいる人間も、読み手も、直記が主犯であると思い込んでしまった。
それが・・・
ここまでは一種の《劇中劇》であったのだ。
この《劇中劇》のなかで、目に見える事実面での歪曲はほとんどせず、事実群からの事実の拾い上げ方、それらに対する解釈、意義づけの点で、おおいに脚色されていた。
真犯人たる「屋代」が事件の解明をミスリードするために。
読み手である僕もみごとにミスリードさせられた。
お見事。
さて。
原作を読み終えた今、さきに視聴したテレビドラマ「夜歩く」についてなにかいうとすれば。
なんとかして原作の構成要素を拾いあげようとしていたんだね。
よく頑張ったね。
という感想になるかな。
原作を知ってしまうと、あちらこちらでのドラマの構成の説得力のなさが際立ってくるけれど。
さてさて。
うえで、「このテキストの章立てにたいする疑念がわいた」と書いた。
それは次の箇所。
(テキストを入力するのが面倒なので、該当箇所をスキャンした画像をはりつける。)
※クリックすると、ポップアップで大きな画像が表示されます(以下、同じ)。
左ページの真ん中あたり。
「私の最初の計画では、前章の『血の凍る予想』で筆を断つつもりであった。」とある。
えっ。
「前章」?
そんな名前の章があったっけ?
ページを繰り直すと。
なんだ。
「章」じゃなくて、「小見出し」じゃないか。
すこし読み進めて。
右ページの中ごろ。
「それに私の語らねばならぬこと、(略)だいたい、前の二章で語りつくしたと思う。」
「前の二章」・・・ねぇ。
いや、言いたいことは分かるよ。
でもねぇ。
で、ずっとさかのぼって本書のまえのほうをみると。
右ページの中ごろ。
「そのみどり御殿へはじめて私が足を踏み入れたのは前章で述べたような話を直記からきかされた翌日のこと、(略)」。
「前章」ねぇ。
左上のヘッダーをみれば分かるように、これは第一章である。
前章は存在しない。
ふーん。
さては。
角川文庫はまたしても章立てをいじってきたな。
僕はこのブログに横溝の『獄門島』にかんする記事を掲載し、改版角川文庫は章立ての階層が他のテキストと異なることを指摘した。
改版角川文庫『獄門島』における章立ては旧版角川文庫『獄門島』の章立てとも異なっている。
つまり、角川文庫は1990年代中ごろの改版でテキストをいじってきたようなのだ。
『夜歩く』でも角川文庫は章立てを改編しているのか?
という疑念・・・
ちなみに、僕が読んだ角川文庫は「平成25年7月5日 改版24版」である。
で、この版の目次はつぎのとおり。
角川文庫の編集部が章立てを改編したのか・・・という疑いの目でこのテキストを眺めると。
物語の内部構造を無視した章の区切りが我慢ならなくなってくる。
ここで三つ連続で並べた画像の一番上。
左ページの「岩頭にて」のまえは《劇中劇》であり、そのあとはその《劇中劇》をつつみこむ本来の《劇》である。
つまり、ここで場面の大きな転換があるのだ。
もし、《章》のレベルで区切るなら、ここが《章》になるべきじゃないか。
で、二番目と三番目の画像を見ると。
同じ時間、空間での出来事を語っているところが《章》でくぎられてしまっている。
変じゃないか。
『夜歩く』という作品の内部構造を物語の展開の時間、空間の点からとらえて、区切るとすれば。
うえで述べた《劇中劇》と本来の《劇》とのあいだで区切られるのがまず第一。
《劇中劇》における東京編と岡山編とで区切られるのが第二。
さらに、《劇中劇》における東京編のなかでも、屋代の下宿たる雑司ヶ谷の古寺での対話をえがく部分と、小金井の古神家の屋敷での出来事をえがく部分とのあいだで区切ることも可能だ。それが第三。
で、角川文庫を眺めると。
第一の部分は小見出しによる区切りになっている。つぎのように。
第二の部分は章による区切り。
第三の部分は小見出しによる区切り。
なんか区切りのレベルのバランスが悪いんだよなぁ。
本文中で「章」といっているのに、その指示対象が「章」でないのも変だし。
そもそも横溝の原稿はどうなっているんだ?
そこで、ちかくの市立図書館にいってきた。
残念ながら、所蔵されていたのは改版角川文庫と次のテキストのみ。
『新版 横溝正史全集7 びっくり箱殺人事件』(講談社、1975年)
この講談社のテキストを見ると。
おや?
「章」による区切りはいっさい存在しない。
「小見出し」っぽい区切りがあるだけである。
となると、講談社のこのテキストでの横溝は、「章」を存在させていないのに、本文中で「前章」などという表現をしてしまっているのか。
もっとも、改版角川文庫と講談社のふたつのテキストだけからは、横溝の真の構想がいかなるものであったのか、結論めいたことをみちびきだすことはできない。
そうではあるが、角川文庫のように物語の内部構造に適合しないかたちで章の区切りをあたえるぐらいなら、講談社のようにすべてを小見出し的な区切りにしたほうがすっきりする。モヤモヤ感が少ない。
ここで、講談社のページのいくつかの画像をここにはりつけておこう。
まず、本文の冒頭。
雑司ヶ谷から小金井へ。
東京から岡山へ。
《劇中劇》から本来の《劇》へ。
そして、つぎ。
これは《劇中劇》がおわり、金田一の薦めによって「屋代」が真実の記録をつづっている《劇》の部分。
竜王の滝の岩頭で「屋代」が「直記」をしばりつけ、トリックを語ってきかせている箇所である。
みてわかるように、「最後の悲劇」というのは「小見出し」である。
が、改版角川文庫ではこれが「章」になっているんだなぁ。
以上、スキャン画像をはりつけながら、ウダウダ言ってみたが。
横溝の構想はどうだったんだろう。
さてさてさて。
『夜歩く』の別のテキストをもとめて市立図書館にいったわけだが。
他の本を手にとってみたら。
ふむ。
角川文庫とは章立て・小見出しが異なるテキストがいくつもあるんだな。
参考までに、『八つ墓村』で改版角川文庫と出版芸術社のふたつのテキストの目次をここにしめしておこう。
まず改版角川文庫。
つぎに出版芸術社。
改版角川文庫が勝手に章立てを変更したと思われるが、それはあくまで僕の推測である。
だから、改版角川文庫の編集方針に対する疑念は根拠のない漠とした疑念にとどめておいて、ここではテキストによって章立て・小見出しの階層性が異なるという事実の提示で締めにしたい。
この記事で僕が簡単におこなったテキスト批判について興味をお持ちになったかたには、僕がこのブログに掲載した『獄門島』に関する記事を読んでいただければさいわいである。
(内部リンク:■横溝正史『獄門島』(その1))
(ふー。わざわざ図書館にいったり、ページをスキャンしたり、スキャンした画像から必要な箇所を切り出したり、画像のサイズを変更したり・・・ 生産性のない営みであったよ。仕事であれば本格的なテキストクリティークをまじめに徹底的にやるが、その前提となる各種テキストの入手云々までやるつもりも元気もない。これは僕の仕事でもなんでもない。もう職業的編集者はまじめにやってほしいよ。僕は純粋に文学作品を読みこなしたいだけなんだ。)