■テレビドラマ「夜歩く」(金田一:古谷一行、1978年)をみた。
古谷一行が金田一耕助を演じたテレビドラマ「夜歩く」(全3回、1978年放送)をDVDで視聴した。
原作:横溝正史
放送年:1978年
本作は横溝正史シリーズⅡのなかの一作。
本作の原作はすでに手もとにあるが、僕は原作を読まずに本作を視聴した。
なぜ本作の原作が手もとにあるかといえば、『八つ墓村』のなかに「鬼首村」を媒介にして『夜歩く』への言及があったことで優先的な興味をもち、購入しておいたからである。
さて。
原作を読まずに視聴した本作についてだが。
本作のディテールは弱い。
殺人の決行を決意した人間が戦友であり探偵である金田一をわざわざ自分の家に泊めることにしたのはなぜなのか。カモフラージュ? で、アリバイ作り? つまりは自信のあらわれ? それとも、戦友だからこそ、その戦友に自分の犯行を暴き出してほしいと実は望んでいた? まさか。
「八千代」が夢遊病を装って夜フラフラ歩いたことの理由はわかったが、「鉄之進」が夜中にフラフラ歩いて、「守衛」の首の沈んでいる場所にいくのはなぜ? 「鉄之進」までが「屋代」の意のままに動いたわけではないんじゃないか。
よくわからないところはある。
でも、おもしろかった。
全3回の、第2回あたりから作品に引き込まれた。
「やまだはなこ」こと「おしず」が手にしている人形はどうして首がないのか。
つらつら考えて。
発狂した「おしず」自身が人形に手をくわえて、そうしたのか。しかし、かりにも「おしず」を愛する「屋代」が介在する時間があったのだ。どうして「屋代」は「おしず」の人形をあのままにしておいたのか。「屋代」にはなにもできないぐらいに「おしず」の発狂と苦悩の度合いが大きいのだ、といえなくもないが、どうも僕には判然としなかった。
しかし、さらにつらつら考えてみると。
「おしず」を発狂させ、首なし人形を愛でるような状態にさせたことに対する「屋代」の怨みが、あえて首を切り落とすという形態での殺人を選択したともいえる。そして、なにも知らない「おしず」は発狂した状態のまま、首のない人形を愛でつづけている・・・
・・・ということかな。
一回こっきりの視聴ではわからないが、再見すれば、いろんな箇所の整合性が確保されていることに気づくのかもしれない、と思った。
理屈で考えた結果ではなく、感覚的なレベルでのおおざっぱな感想としては。
本作はおもしろかった。