■テレビドラマ「悪魔が来りて笛を吹く」(金田一:古谷一行、1977年)をみた。(上)
古谷一行が金田一耕助を演じたテレビドラマ「悪魔が来りて笛を吹く」(全5回、1977年放送)の第1話と第2話をDVDで視聴した。
注意! この記事はネタバレ満載です。
原作:横溝正史
放送年:1977年
1977年に放送された第1期横溝正史シリーズのなかの一作。
本作のDVDはちかくのレンタルショップにはないが、すこし離れたところのレンタルショップにある。
先日記事にした古谷版「獄門島」(1977年)と同様、ちょっとした事情があり、その、すこし離れたところのレンタルショップにいって、本作をレンタルしてきた。
本作は全5話。
DVDでは2枚。
第1話と第2話がDVDの上巻に、第3話、第4話、第5話が下巻に収録されている。
で、第1話を再生しはじめて。
「美禰子」を演じているのは「檀ふみ」だ。
「檀ふみ」といえば。
「池辺晋一郎」のダジャレを華麗にさばく後年の姿が印象的である。
…というのはさておき。
フルート吹きの子爵である「椿英輔」。
このドラマでは「英輔」が「えいすけ」と呼ばれている。
原作では「ひですけ」とルビがふられているのになぁ。
なんでこんな変更をしたんだろう?
・・・という疑問は生じたが。
このドラマはすごくおもしろい。
で、第1話を視聴してから、原作を読み直してみた。
第1話に該当するところ(第1章から第6章)を読み直して、このドラマは実に忠実に原作をなぞっていることがわかった。
まず、「昭和22年」という点で原作のとおりである。
すべての要素が完全に一致するわけではないが、たとえば、天銀堂事件が起こった日、英輔がはじめて警察に呼ばれた日、英輔失踪が新聞に載った日は原作とドラマではっきり共通している。
英輔の死体が発見された日について原作では4月14日と明示されている。
ドラマでは死体が発見されたことがナレーションで語られると同時に、霧ヶ峰山中で美禰子、一彦、利彦、東太郎の4人が英輔の死体と対面するシーンが映像でえがかれる。そこで画面に表示されてくる日付は4月15日。
原作では英輔と思われる死体が発見されたという連絡をうけたとき、誰が霧ヶ峰にいくか、一悶着あったことになっているから、美禰子たちが霧ヶ峰で死体と対面するのが死体発見の翌日であったと解釈することは不可能ではない。
となると、4月14日に霧ヶ峰山中で英輔の死体が発見されたという点でも原作とドラマは共通だといえなくもない。(原作とドラマで日付が共通ではないと断定することができない。)
原作では英輔と天銀堂事件の捜査とのかかわりは新聞に載らなかったことになっているのに対して、ドラマでは失踪を報ずる記事のなかに天銀堂事件への言及があるという違いはある。(ドラマでのその新聞の見出しは「椿英輔元子爵失踪 天銀堂事件に関係か?!」)
そういう違いはあるが、物語の導入のなかで一連の出来事の日付は原作をなぞっているのだ。
(原作に明示されたもろもろの出来事の日付のすべてがドラマと共通なわけではない。たとえば、警察から帰ってきた英輔が美禰子に《このいえには悪魔がすんでいる》とつげた日はドラマと原作で異なる。)
日付以外のことについていえば。
天銀堂で青酸カリを飲まされたのが13人で、そのうち助かったのは3人であるが、このドラマでは問題のシーンにしっかり13人の人間が店のスタッフとして登場している。
このドラマの制作者は律儀だなぁ。
例の占いの場の席順も原作のそれを忠実に再現しているし、金田一が東太郎の指のこと、菊江の指のことに気づく知覚の順番も原作の通りだし、占いの最中に立ち上がって占いの装置の棒にふれる人の順番も原作の通り。
さらに。
あちらこちらのセリフが原作のそれをそっくりそのまま再現したものになっている。
具体例を1箇所だけひくと。
フルートの音が聞こえてくる二階のほうを見て、美禰子がいうセリフ。
「誰……? そこにいるのは……?」(略)
「誰かそこにいて?」
美禰子はもういちど声をかけて、壁のうえのスウィッチをひねった。階段のうえがパッと明るくなったが、あいかわらず返事はなく、フルートの音は少しも調子をみださずにつづいている。(角川文庫(*注1)、pp.79-80)
このセリフも、このセリフのあとに電灯のスイッチをいれるのも、ぴったり原作の通り。
フルートの音が聞こえてきたときに一番最初に占いの部屋を飛び出すのが美禰子であるのが原作の通りだったり、「いってみましょう」といって最初に階段をのぼるのが一彦であるのが原作の通りだったり。
本筋にかかわらないようなところでも執拗に原作の再現をはかろうとしている。
たとえば、占いの日の菊江の服装も原作の再現だ。
菊江が着ているのは真紅のイブニング!
あの服でなくても菊江の性格をえがきだすことは十分に可能だろうに。
ついでにいえば、英輔の死体発見の現場にいくのが美禰子、一彦、利彦、東太郎の4人であるのも、原作の通りなのだ。
美禰子がそこにいるのは必須だとしても、一彦、利彦、東太郎の3人をそろえることはそれほど必要ではないんじゃないとも思える。
あのシーンで具体的な体の動きをするのは美禰子ただひとりだし。あとの3人はただ突っ立っているだけだし。
第2話での美禰子と一彦の会話から一彦があの場にいあわせなければいけなかったことははっきりするが、それよりずっと前のあの小さなワンシーンでの人物の登場のさせかたは原作に対して実に誠実だ。
細部へのこだわりがあって、このドラマはすごく見ごたえがある。
・・・ということを、このドラマの第1話を初見し、原作の該当箇所を読み直し、第1話を再見し・・・で感じた。
ほんと、おもしろい。
で、つぎに第2話を視聴した。
第2話視聴後、原作の該当箇所を読み直した。(第7章から第16章)
須磨の玉虫の別荘跡にのこる石灯籠に「悪魔 ここに 誕生す」の文字がしるされている。
原作では「青鉛筆」でしるされたことになっている。
ドラマのそのシーンでその文字の色は青!
文字の色はトリックに全然関係ないんじゃないか?
このドラマは細かいところをよく再現しているなぁ、と思った。
もちろん、違うところはいくつもある。
ドラマにはタイプライターの問題はあらわれない。
ドラマ化にあたって設定を変更せざるをえないところはあって当然。
原作とドラマでなにからなにまで同じであるということはありえないから、細部の差違をあげつらうつもりはない。
そうではあるが、ひとつだけいうとすれば。
金田一が東太郎の言語歴をさぐる問いかけをするが、ドラマでの会話のなかにはアクセントが重要な役割をもつ単語があらわれない。(原作では「蜘蛛」と「橋」)
せっかくリアルな音声で語られるドラマなんだから、こういうところはきちんと再現してくれてもいいのに、とは思った。
ともかく。
このドラマは原作のながれの要所要所を実に忠実に再現している。
それにくわえて、一見するとどうでもいいような小物でも原作の忠実な再現をこころみている。
比較してみると、けっこう楽しい。
・・・というのが、ドラマの第2話を初見し、原作の該当箇所を読み直し、第2話を飛ばし飛ばし再見しての感想である。
(「■テレビドラマ「悪魔が来りて笛を吹く」(金田一:古谷一行、1977年)をみた。(下)」につづく。)
*注1
横溝正史『金田一耕助ファイル4 悪魔が来りて笛を吹く』角川文庫
1973年2月20日初版、1996年9月25日改版初版、2013年4月25日改版31版
以下、この記事のなかでの引用はこのテキストからおこなう。