新編 膝枕

智に働きたいと思いながら、なんかやってます。

■横溝正史『不死蝶』

横溝正史『不死蝶』を読んだ。


僕が読んだのはつぎのKindle版である。

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横溝正史『不死蝶』角川e文庫、2002年

みてわかるように、これは昭和50年(1975年)4月30日に初版が発行された角川文庫の12版を底本にしたものである。

* * *

先日、原作を読まずに古谷版テレビドラマを視聴した。

僕はアマゾンの角川フェアで横溝作品のすべてのタイトルをKindle版で購入してある。

当然『不死蝶』もKindle版で手もとにあるのだが、小説を紙ではない媒体で読むのはしんどい。

なにより、ページをパラパラとさばいて、それまでの物語の展開を一発で確認するという行為が、Kindle版ではできない。

Kindle版には紙ほどの一望的視認性がないゆえに、正直なところ、Kindle版で小説は読みたくない。

が、テレビドラマはおもしろかった。

おもしろかった作品の原作は読みたい。

テレビドラマで気になった箇所を確認する意味もあって、iPhoneのちいさい画面でさっそく原作を読み始めた。

* * *

原作では事件が起こるのは7月。

テレビドラマでは2月の設定であったが、それはきっと撮影の季節にあわせた変更なんだろうな、と思った。

吐く息が白いんだもんな。草木が茶色いんだもんな。

テレビドラマで「鮎川マリ」がオープンカーに乗っているのは、季節的にはかなり変であるが、アクティブな「マリ」と隠れた生活の「君江」とを対比させるために、あえてそうしたのかな、と思った。

「マリ」にオープンカーに乗らせることによって、自動車修理のからみで「マリ」と「康雄」がつながるし、「康雄」が整備士としての修行のために東京行きを考え、いずれは「都」を東京に呼び寄せるという会話ともむすびついてくる。

いずれも原作にはない要素であるが、ドラマ末尾での康雄と都の東京への逃避行を考えると、それなりに筋の通った展開への改編であると思った。

それと、鍾乳洞の、教会につながる通路について、原作とドラマともに23年前の事件の一年後に発見されたということになっている。

原作では、人ひとりがやっと通れるぐらいの狭さだという描写をはさむことで、その存在の気づかれにくさが示されはする。

複雑な鍾乳洞のおくに井戸があるなどという空間の設定がそもそも不自然であるということは脇におくとして、やはり井戸は生活の場のひとつであるはずであり、ゆえに井戸のまわりの状況がそんなに長いあいだ地元の人に知られていなかったというのは理解しがたく、やはり不自然である。

この点では、ドラマで不自然であったことは、原作においても不自然であったな。

* * *

さて。

これまで僕は横溝作品の原作と映像のいくつかにふれてきた。

 (1) 原作を読んでから映像を視聴したもの(犬神家、八つ墓村獄門島など)

 (2) 映像を視聴してから原作を読んだもの(夜歩く、仮面舞踏会)

 (3) 原作を読んだのみ(いくつかの短編)

 (4) 映像を視聴したのみ(病院坂、三つ首塔)

(1)(2)についていえば、映像よりも原作のほうが圧倒的に良いと思うものばかりだった。

が、『不死蝶』については原作よりも映像のほうがよいと思った。

矢部家と玉造家の人間のあいだには祖父母、父母、子という3つのジェネレーションでの恋模様が存在する。

登場人物に「ロミオとジュリエット」に言及させているように、一見すると反目しあっているかのような両家はモンタギュー家とキャピュレット家でもある。

ロミオとジュリエット的物語を最後まで徹底させているのがテレビドラマのほうであり、それが僕にはおもしろかった。

* * *

黒いベールを身にまとった「君江」が鍾乳洞のほうにいく。

それを「康雄」が追いかける。

ここまでは原作とドラマで共通である。

しかし、ドラマでは「マリ」と「康雄」が玉造の数少ない生き残りの人間として口裏を合わせたことになっているのに対して、原作では「康雄」のその後の行動の不合理さは深く追求されることがない。不自然なままだ。

原作では「乙奈」と「杢衛」のあいだの恋仲が「杢衛」の死骸をまえにしての「乙奈」の涙によってはっきりと描写されるが、若い時分の「乙奈」の《裏切り》の理由は書き込まれていない。読むほうとしては欲求不満。

細部に曖昧な点のおおい原作よりも、いくつもの要素をばっさり切り落としてロミオとジュリエット的物語に収斂させていくテレビドラマのほうが、コンパクトななかに筋を通していて、みごとだと思った。

以上、原作は一回の通読のみ、ドラマも一回の視聴のみの時点での感想である。