新編 膝枕

智に働きたいと思いながら、なんかやってます。

■映画「半分の月がのぼる空」をみた。~前編~(感想文・その2)

映画「半分の月がのぼる空」のDVDをみた。

 

(この感想文の構成については「~予告編~(感想文・その1)」の【追記】をご覧ください)

 

【注意!】

この記事にはネタバレ的記述がたくさんふくまれています。しかも、このネタバレ的記述は詳細なものです。本作はまえもっての知識をいっさいもたずに視聴したほうがよい作品です。本作を未見のかたには、この記事のつづきをみないことをおすすめします。

 

 

1.作品情報

 

監督:深川栄洋

脚本:西田征史

出演:池松壮亮忽那汐里大泉洋

公開2010年

 

主題歌

「15の言葉」阿部真央PONY CANYON

作詞・作曲 阿部真央

編曲 小森雄壱

プロデューサー 安藤正和

A&Rディレクター 中西克仁

 

この映画の公式サイト

ホーム:半分の月がのぼる空

http://www.hantsuki-movie.com/

 

2.総論的感想

 

名作。

(看過しがたい大きな演出ミスはあるが、このことは本作にたいする最終的な評価に影響をあたえない。その理由はあとにのべる。)

 

【注意!】

繰り返します! 本作を未見の方はこのつづきを読まないでください!

 

3.主要登場人物と役者の対応

 

夏目裕一(なつめ ゆういち)…(池松壮亮大泉洋

里香(りか)…(忽那汐里

 

4.物語の展開する時代(年代)、および作品の構成――ストーリーの紹介をおりまぜながら――

 

4.1.時代(年代)

 

物語の展開する時代(年代)は主要なものがつぎのふたつ。

 

(1) 1993年

(2) 現在 (おそらく、「2010年(=公開年)以降」のこと。この《現在》が何年のことであるか、作中の情報だけをもとに年代を特定するのは不可能である。なにより、本作の理解にあたっては、この年代を特定しようとすることに重要な意味はない。ここでは「2010年以降」とゆるやかに限定しておく。理由は以下に述べる)

 

ここに「裕一」の医学部入学と卒業の年代をおりこむと、おおよそつぎのようになる。(「裕一」を中心にしてしめす)

 

【1993年春】「裕一」、「里香」とであう

【1996年4月】「裕一」、医学部入学

【2002年3月】「裕一、医学部卒業

【現在】「裕一」、心臓手術の執刀再開を決意

 

4.2.時代(年代)特定の根拠

 

うえで僕は「裕一」と「里香」の出会いが「1993年」の春、「裕一」の医学部入学を「1996年4月」(医学部の修業年数は6年であるから、卒業年は入学年から計算できる)といったが、それは作中のつぎの情報から明確に読み取ることができることであって、けっして僕の妄想などではない。

ここでは、年代をこのように特定した根拠をのべる。また、《現在》を「2010年以降」とゆるやかにしか限定できない理由ものべる。

 

4.2.1.「1993年」の根拠

 

「1993年」ということがわかるのは、つぎの3つのシーンを組み合わせることによってである。

 

(1)「里香」の病室で「裕一」が「里香」に「去年の文化祭の写真」と「今年の文化祭のパンフレット」をみせる("00:56:28"~)。このときのこのパンフレットの表紙。

三重県

山上高校

第31回 山上際

 

’93

6.12(土)校内発表

6.13(日)一般公開

 9:00~14:30

(2)入場門のアーチ("00:58:32")

第31回 山上際

(3)模擬店の背景("00:59:03")

体育館スケジュール

~6月12日(土)~(略)

(略)

なお、上記の(1)のシーンの情報だけに依拠すると、「裕一と里香の出会いは「1994年」である」と解釈するのが妥当になる。なぜなら、このシーンではつぎのやりとりがなされるからである。

(里香の目の前のテーブルには、左側に諸々の写真、右側にパンフレット)

 

里香「なにこれ?」

 里香、パンフレットを手にとる

裕一「去年の文化祭んときのやつ」

このやりとりを素直に解釈すると、このパンフレットは去年の文化祭のものであることになるだろう。つまり、そこに書かれた「1993年」は《去年》の年をさすことになる。しかし、実際に「里香」が足をはこぶ文化祭の現場には「第31回」の文言があり、「6月12日(土)」の文言がある。となると、「1993年」としるされたこのパンフレットは《今年》のパンフレットであることになる。(ちなみに、現実世界においても、1993年の6月12日は土曜日、13日は日曜日である。(翌1994年の6月12日は日曜日、13日は月曜日))

(このシーンでの「裕一」の発話(「去年の文化祭んときのやつ」)の主語はテーブル上の左側におかれた「諸々の写真」であると解釈してあげるのが、演出家には親切な視聴者の対応だが、はっきりいえば、これは「演出ミス」)

 

4.2.2.医学部入学を1996年4月(医学部卒業を2002年3月)とみなす根拠

 

合格発表のシーン("01:33:14"~)で、裕一が手にした受験票の記載事項

平成7年度 (略)

受験番号1523

医学部医学科

夏目裕一

合格発表の日に「裕一」が手にした受験票に「平成7年度」(=1995年度)としるされている。(なお、1995年度の試験と合格発表は1996年2月か3月だろう。そして、この入試に合格した学生の入学は4月になるのが通常だ。)

(「1993年」に肝炎で入院していた「裕一」が留年せずに高校を卒業したのだとすれば、「裕一」は受験に2回失敗したことになる。医学部合格後の「裕一」はまっすぐに医学部に入学し、順当に卒業しただろう。ここに「留年・休学などの事態が生じることがなかったのであれば」という保留をつけることは可能だが、「裕一」が医者になると決めた動機を考えると、そのような事態を想定するほうがむしろ不自然だと思う。また、医師国家試験も一度で通過したことだろう。)

 

4.2.3.《現在》の年代の特定が不可能な理由

 

うえで、《現在》の年代を特定することが不可能であると述べたが、かりに《現在》を本作公開年の2010年とすると、おかしなことが生じる。

《現在》が2010年だとすると、「夏目」が妻を亡くしたのは、その6年前の2004年のことになる。「裕一」は2002年3月に医学部卒業、2004年に妻の死によって心臓外科医として手術の執刀をやめる。となると、「夏目」の心臓外科医としての経験は「2年」(研修医時代も含めると??)だけ?

6年も手術から遠ざかっていた「夏目」をたよって難しい症例の女の子が転院してくるぐらいだから、「夏目」の心臓外科医としての腕はきわめてすばらしいものだと推測するのが妥当だと思う。しかし、「!年」でそれほどの腕を身につけることがそもそも可能なものか。医師免許をとりたての人間がそれだけの数の執刀をまかせられるものなのか。疑問はつのる。

となると、「里香」が死んだ(=「夏目」が心臓外科医をやめた)のは、2002年に医師になった「裕一」が心臓外科医としての経験をたくさんつんだあとでのことだと考えるのが自然だろう。それだけの経験を積む期間の存在を前提にして考えると、現在を2010年とするのは、おおきな疑問をのこしたままになる。まして、「里香」は、「裕一」の執刀による何度もの手術をへながらも、妊娠出産までしているのだ。

ここで確実にいえるのは、本作における《現在》は本作公開年である「2010年」よりあとのことだと解釈するのが自然だ、ということである。当然ながら、「2010年より前」という解釈はさらによりいっそう妥当性をかく。うえで、「2010年以降」とゆるやかな限定をしたのはそのためである。

* * *

なお、《現在》の年代を特定するための手がかりとして娘の「みく」に言及するべきだと考えるかたがいるかもしれない。「みく」が明確に画面に映るのはつぎ。(ほかは、赤ん坊の時の写真があるのみである。)

 

(A)「里香」がベランダで倒れていた日、布団に寝ていた娘「みく」("01:38:56")

(B)その後、お絵かきをしている「みく」(そのむこうには、「みく」のおもちゃがひろがっている)("01:40:12")

(C)「里香」の死から6年たった《現在》の、小学生である「みく」("01:35:42"と"01:45:59")

 

いずれも、その行動、言葉づかいからだいたいの年齢はわかるとしても、「みく」の年齢が明示されないことにはかわりはない(「みく」の年齢が明示されたとしても、それが《現在》の年代の特定に資するわけではない)。ただ、推定される「みく」の年齢をてがかりにして、「裕一」と「里香」、「みく」の三人での生活がおこなわれた期間を想定してみることはできるだろう。

(蛇足だが、妊娠出産が可能になるまでの「里香」の心臓の状態の推移は、専門家なら推定することができるのかもしれない。そうであるなら、それをもとに、よりありそうな年代を考えてみることは可能だと思う。)

 

4.3.作中の出来事の展開する年代と季節のさらなる特定

 

作中の出来事の年代と季節をより詳細に特定すると、つぎのようになる。

 

【1993年】

【春】「裕一」と「里香」はお互いが入院する病院でであう。「裕一」と「里香」は夜中に病院を抜け出し、砲台山にゆく。

(「裕一」がパジャマ姿で深夜の街中を自転車で走り回っていること、さらに病院の屋上でのようすから、春ごろと推定される)。

【6月】「里香」は「裕一」の高校の文化祭に遊びに行き、演劇部の公演に飛び入り参加する。

【夏】「裕一」が退院する。

(「夏」と限定するのは、退院の日の「裕一」が半袖シャツを着ているからである)。

・裕一の退院からそれほど時をおかずに、里香が東京の病院へ転院したと推定される。

・この年の「裕一」は「高校三年生」であったと解釈するのが妥当だと思う。

(根拠:「おれ、卒業したら東京いくわ」という友人の発言("00:24:07")、また、演劇部で脚本をかき、演出をし、主役までつとめる友人の役割の大きさなどから、そう判断してよいだろう)

・「里香」は「裕一」と同い年ぐらいに見えるが、1993年時点での彼女の年齢の特定を可能にする情報は作中にはしめされない。

(作中で里香の年齢に言及しているのは、つぎの「あきこさん」のセリフのみ。:「あのこ、9歳から入院して、それから一回も学校にもどれてないんやって」("00:19:22")。それ以上の情報はない。)

 

【1994年】

【春】「裕一」と「里香」、砲台山の塔へゆく。(根拠:「ここも一年ぶりだねー」("01:32:19")という里香のセリフ)

 

【1996年】

【2月か3月】「裕一」、医学部受験そして合格。「里香」といっしょに合格発表を見にゆく。

【4月】「裕一」、医学部医学科入学

 

【2002年】

【3月】裕一、医学部卒業

 

【《現在》】

6年前に妻を亡くしてから心臓外科医であることをやめた「夏目裕一」は、自分をたよって転院してきた女の子の心臓手術の執刀を決意する。

 

4.4.本作の構成~《ひねり》にかかわることを中心にして~

 

本作は、「裕一」と「里香」の行動を描き出すシーンの合間合間に、「夏目」(6年前の妻の死をきっかけに心臓外科医であることをやめた医師。現在は内科勤務)の行動を描き出すシーンが挿入されてくる。物語が4分の3をすぎたあたりから、「裕一」が長じて医師になったすがたが「夏目」であること、物語の時代は「夏目裕一」の《過去》(=高校時代)と《現在》とのふたつにまたがることが明らかにされる。

映像をのんびりとながめているだけでは、物語の舞台が《過去》と《現在》とで区別されることには、おそらく、気づくことはできないだろう。まして、「裕一」と「夏目」が実は同一人物なのではないかと、明確な根拠をもって疑ってみることもできない。これは演出家がしくんだことであるから、視聴者がそれに気づかないとしても、視聴者の不注意ではないはずだ。むしろ、これは本作のこの構成を構想した制作陣のアイデアがすぐれていることをしめすものであって、ここに演出のミソ、すなわち、作品の後半で視聴者に意外性を感じさせる《ひねり》があるともいえる。

(「1993年」というのは作中の画面に映りこむ、文字通り小さな《小物》に着目したことによってとりだされる情報であるから、ここでは単に《過去》とよぶことにする。)

「裕一」と「里香」の出会いの時代がいつかということは、会話で「看護婦」「婦長」という言い方がなされていること、ナースがナース帽をかぶっていること、さらにテレビの種類・形状から、この時代が「現代っぽくない」ことはわかるし、「裕一」のくちから「言葉の意味はようわかりませんけど、とにかくすごい自信やで」("00:17:01"~)という「キン肉マン世代」の言葉がでてくるから、裕一たちのジェネレーションが「ひとむかしまえ」のことであることを感じ取ることができる。

(もっとも、「夏目」に話しかけるナースがナース帽をかぶっている("00:13:40")から(このシーンのほかにも、「夏目」の登場するシーンのなかにナース帽のナースが登場する)、この帽子の有無だけによっては、「夏目」の時代が「裕一」の時代と異なるという結論を導き出すことはできない。)

一方、「夏目」が登場するシーンのひとつに「携帯電話で娘と話をする」シーン("00:49:09")がある。「携帯電話」(スライド式で、カメラもついているようだ)が登場するとなると、「ひとむかしまえ」というほどこの時代は古いわけではなさそうだ。

(ちなみに、「里香」から「裕一」に手渡される『銀河鉄道の夜』の「奥付」("00:47:09")には「1977年8年27日初版発行」としるされている。(僕の画面が小さくて、はっきりしない。詳細情報求む))

本作をこまかくみると、「裕一」「里香」の時代と「夏目」の時代とが異なりそうだということにきづいて、(別の時代じゃないか)と疑ってみることを可能にするような映像はすこしはあるが、作品を順番に知覚していく「初見時」にはこの疑いに十分な根拠をあたえることのないようなつくりを本作はもっている。「里香」が転院してまで執刀を依頼しようとした医師というのは「夏目」にほかならない、と視聴者はおもいこまされるわけだ。

さて、「里香」が転院してまで執刀を依頼しようとした医師が「夏目」ではないことが明示されるのは、「里香」とその母親が転院にあたって院長に挨拶をするシーンでのことだ("01:23:26"~)。

このシーンでは、院長の顔がうつり、その顔がこれまで「夏目」を説得しようとしていた院長とはべつの人物の顔であることがわかる("01:23:36")。とくに、そこでの院長の「せっかくね。わたしをたよってきていただいたのに、もうしわけない。わたしもねえ。以前のような手術に体が耐えられないもので。」というセリフがゆるぎないかたちでこのことを明示してみせる。

(「夏目」は誰なのか?)という疑問が視聴者のなかにわき起こった直後に、「裕一」の退院のシーンが配置される。それを見送る「里香」・・ときて、その「里香」と「夏目」が廊下ですれちがうのだが。「夏目」はすれ違ったばかりのその人を追いかけ、話しかける("01:25:42")。「夏目」に声をかけられ、ふりむいたその女の子は・・・「里香」じゃない!

ここから、本作の《ひねり》が本格的におもてにでてくる。「夏目」の診察室の机の上に置かれた写真(「里香」だ)("01:26:35")、そこでの「夏目」から少年への忠告と告白、帰宅後、向かいの部屋の棚におかれたの写真のズームアップ(「里香」だ)("01:30:30")、アルバムの写真に「里香」の姿をみて夏目が過去を回想する。そして、娘が『銀河鉄道の夜』を…

(以下略。この《ひねり》のさまは、実際に本作を視聴することによって感じ取っていただきたいので、これ以上の詳細な記述はここでは省略。)

 

【再度の注意!とお願い】

つづいて、本作のより詳細な記述に突入します。

「夏目」が「里香」を回想するシーンが《すさまじく、超絶的にすばらしい》です。そして、そのあとにあらわれる「里香」の《おまじない》のシーンが、これまたすさまじくすばらしいです。感動します。何度みても感動します。ただ、できれば、予備知識なしにみたときにいだく1回目の感動も大切にしたいと思います。この記事をここまで読んでくださったあなたがもし本作を未見のかたでしたら、あなたには、この記事を読むのを中断して、(いまからでもいい、これ以上の予備知識をもつことなしにぜひ本作を視聴してほしい)とおすすめします。

 

5.《演出ミス》、および僕がそう断じた根拠

 

僕はこの記事の最初で「総論的感想」の項に「看過しがたい大きな演出ミスがある」としるしたが、ここでは、《演出ミス》のある箇所を具体的に指摘するとともに、僕がそう断定した根拠をのべる。(「演出ミスかもしれない」というあやふやなものではない。「断定」である。)

 

5.1.演出ミス(1)~「夏目」の手に本がなかったり、あったり~

 

娘の「みく」に本を読んでとせがまれた「夏目」は、娘の選んできた『銀河鉄道の夜』を読み聞かせる。ここで指摘したいのは、娘が寝入ったあとのことだ。

 

(A)「夏目」は砲台山に向かう("01:39:30"~)

(B)草木をかき分けながら、山のなかをあるき("01:39:49"~)

(C)「里香」とつぶやきながら、さらに山のなかを歩き("01:40:50"~)

(D)ついに、塔のある山頂へ到着する("01:41:08"~)

 

このとき「夏目」は鞄などいっさいもたずに砲台山へ向かったわけだ。ただひとつ、手に『銀河鉄道の夜』をもって…。

さて、上の、A、B、C、Dよっつのシーンをよくみると…。Cでは「夏目」の手がうつらないのでここでは考慮からはずれるが、BとDでの彼は一冊の本を手にもっているのにたいして、Aでの彼は手になにももっていない! おかしい。これは、おかしい箇所の指摘が、そのまま、おかしいとみなす根拠の指摘になるので、これ以上はことばをつがない。

(Aのシーンを、砲台山にむかうという行為の一コマとして位置づけなければ、ここで指摘したことは《演出ミス》でもなくなるが、今度は、Aのシーンをここに挿入した編集の意味が不明になる。意味不明な、不要なシーンがとりこまれているのだとすれば、やはり、《演出ミス》と指摘することが可能になる。)

 

5.2.演出ミス(2)~本のカバーのはずし方~

 

ここで指摘したいのは、上記の(D)以降、砲台山の山頂でのことだ。塔のもとに座り込んだ「夏目」が『銀河鉄道の夜』を手から落とす。それをひろいあげた「夏目」はその本にしるされた「里香」のメッセージを目にする、というシーン。

あらかじめこの場面の全体をながめておかないと、ここで僕が《演出ミス》と断定した根拠がつたわらないとおもう。そこで、まず、この場面の台本をおこしておく。

 

〔台本おこし開始〕

 夏目、塔を目の前にする。そこには1993年時の「里香」の姿。その「里香」にむかって「夏目」がはなしかける。

夏目「ようやっとるやろ、里香」

 塔に近づく夏目。もうそこには里香の姿はない。

 塔の台座部分にもたれかかりながら、そして、そこに手をふれながら。

 夏目「里香がおらんでも、ようやっとるやろ。なんでそばにおってくれんのや。里香がおらん俺の人生はからっぽや。」

 夏目、すわりこむ。

夏目「もう、ほんまは、一歩もあるきとうないんや。」

 夏目、本を落とす。

 それをひろいあげ、ページをひらき、カバーをはずす。

 裏表紙裏を注視する夏目。慟哭。

 そこにかかれていたのは、つぎの文言。

裕一へ

私はいつもそばにいるよ。

ガンバレ!

これは命令!

    里香

 里香のナレーションがかぶさる。

 回想シーン。

里香「私がいなくなって、さみしくなったら読んで。元気になるおまじないかけといたから。」

 さらに、泣き崩れる夏目。

……

 場面かわって病院内。

 夏目が荷物の整理をしている。そこに「あきこさん」が登場。

 (略)

あきこさん「あの女の子の手術、名古屋の病院で執刀させてもらうんやってな。」

夏目「はい、まえにつとめておった職場やもんで、おれもそこに戻ります。」

あきこさん「どうしたん、急に。」

夏目「里香の命令やもんで。」("01:45:42")

 (略)

〔台本おこし終了〕

 

ここでの夏目のセリフからは、「夏目」は「里香」がそばにいてくれないことによって、人生に空虚さを感じていることがよみとれる。「夏目」のセリフをそのまま素直にきけば、そうなのだから、「よみとる」というのさえ妥当ではないぐらい、あきらかなことだ。

「一歩もあるきとうないんや」という心情の吐露にいたらせるまでの彼の寂しさ、人生の空虚さを癒すものとしてはたらき、心臓手術の執刀への復帰にいたらせるのが、里香の《おまじない》としてのメッセージである。

里香がかけた《おまじない》によって、やっと夏目は歩き出すことができる(その歩き出し方の具体的なあらわれが、「あの女の子の手術を執刀することを決心する」ということだ)。となると、夏目はこの《おまじない》としてのメッセージをそれまで知らずにいて、このときはじめて目にしたのでなければならない。夏目はこの《おまじない》としての具体的な文言の存在をまったく知らなかったからこそ、この《おまじない》はここでの「夏目」に有効にはたらくのだ。

これをいいかえると、夏目は、この瞬間までこの本のこの場所に里香の手書きのメッセージがしるされていることを知らず、たまたま手から滑り落ちた本を拾い上げたときにはじめて気がつく、というのが自然な流れだ。

しかし、ここでの夏目の行動をみると、夏目は、この《おまじない》としての里香のメッセージをすでに知っていたような振る舞いをしている。ここで僕が《演出ミス》と断じるのは、ここでの夏目は、本をひろいあげるやいなや、まっすぐにカバーをはずしにかかっているからである。あたかも、カバーをはずしたそこに存在するものの正体を知っていて、それに対面するのが目的であるかのように、何の躊躇もなく、カバーをはずしにかかっている。ここでの夏目は、本を拾い上げたあと、何のためらいも、おどろきもなく、カバーをはずし、それから、裏表紙の裏面にしるされた文言を目にして、号泣する。

すでに夏目はこの本にかけられた《おまじない》としてのメッセージの存在を知っていたのだとすれば、なぜ、大事な里香の命令をこれまでのあいだに遂行することができずにいたのか、理解できない。この《おまじない》のことは知っていたけれど、このおまじないが効果をあらわすのは、この塔のもとでのみだったのだ、なんていう解釈を僕はしない。《演出ミス》と断言する。

(夏目が妻の死後6年たったこの時期に砲台山のあるこの町に転勤してきた動機は作中に描かれないが、この動機を里香の《おまじない》とのかかわりでとらえようとすることの根拠を見いだすことができない。)

 

5.3.これらの演出ミスについての感想

 

この日、娘の「みく」が「夏目」の本棚から『銀河鉄道の夜』を選びとってきた時点で十分に感動的だ。夏目の心が決定的に弱くなったこの日、里香との思い出の場所である砲台山の塔に夏目がむかうことも感動的。作為性は感じるが、まぁ感動的だ。このとき『銀河鉄道の夜』一冊を裸のまま持っていくのは、僕には理解しがたいが、まぁまぁ感動的だ。

保留をつけたいとはいえ、それでも感動的であると感じさせるシーンを視聴者に見せつけておきながら、あの、里香のメッセージ=おまじないを画面に映し出すまでの夏目のみじかい所作がまったくよくない。落とした本をひろいあげるときに、なんらかの偶然でカバーがはずれ、それによって里香のメッセージが夏目の前に現出した、という流れのほうが、現在の夏目を勇気づける里香の《おまじない》の効果は高まる。残念だ。

ただ、この《演出ミス》を見て見ぬふりをすれば、なんどみても、このシーンは感動するだろうと思う。僕などは、《演出ミス》と断じたあとでも、このシーンに感動する。

本作の構成では、《過去》と《現在》の交差の意外性がおおきく、作品冒頭でえがきだされた里香の性格が「命令」というメッセージ=おまじないで見事に実を結ぶ。本作は初見時にはおおいに感動的であり、そう断言することについて僕には妥協の余地はない。繰り返しになるが、初見時にはおおいに感動的だ。本作の感動は《過去》と《現在》の交差の意外性そのものによるところがおおきいと思うから、この《演出ミス》があろうとなかろうと、何度もの再見以降も感動的であることにはかわりはない、と僕は実感として感じるのだが、あえていえば、この《演出ミス》が再見時の感動をうすくする可能性は否定できない。もったいない。

(この稿、つづく)

 

(この記事のつづきはつぎへジャンプ。「■映画「半分の月がのぼる空」をみた。~後編~(感想文・その3)」(2月16日掲載))

 

(注:この記事の原稿は、1月16日に最終の更新をしたまま放置してあったものに、このたびの公開にあたって、若干の修正をくわえたものである。セリフなどの引用にあたっては、該当箇所のタイムを明記するようにつとめたが、僕の視聴環境ではDVDの「早送り」「巻き戻し」などを繰り返すことによってタイムに何秒かのズレが生じるようであり、そのため、引用箇所の文字通りの正確な表示になりえていない場合があることをお断りしておく。)