■映画「半分の月がのぼる空」をみた。~後編~(感想文・その3)
(本記事は、きのうこのブログに掲載した記事 「■映画「半分の月がのぼる空」をみた。~前編~(感想文・その2)」 のつづきである)
6.本作の名作性~名場面の紹介(箇条書きに)~
ここでは、僕が(よい)と感じたシーンを箇条書きに紹介しようと思う。
じつのところ、僕は、文化祭での演劇をみた時点で、(もう本作は名作、これで終了してもよい)とおもった。ここがクライマックスでもよい。ほんと、この演劇の場面、最高。僕は好きなんだよ、こういう展開。
そこで、まず、「名作性・0」として、演劇シーンの台本を、若干の省略をしながら、また、演劇以外の要素をつけ加えながら、かきおこしてみる。「名作性・1」以降では、必要に応じてこの台本に言及しながら、本作のすばらしいところを紹介していくことにする。(ただ、単純なメモ書きにとどまる部分もある。読者のみなさまには、そうした部分については、僕自身の記憶の再現のためのメモとしてうけとっていただければさいわいである。)
6.1.名作性・0~文化祭の演劇、それに付随する出来事~
劇のタイトル
「リチャード王子 & 夢の王国」
【幕があがるまえ】
主役の女の子が本番当日に学校にこない、という事態をうけて、「里香」が「裕一」にいう。
里香「わたし、やりたい。」("01:01:03")
(感想:ここでの里香がいじらしくて、猛烈にかわいらしい。風船を手にしてね。「わたし、やりたい」って。。かわいいよ。しかも、彼女は台本を読み込んで、セリフを完璧に覚えていたんだよ。舞台にあがれると決まっていたわけではないのにね。)
【幕があがる】
("01:01:15"~)
客が集まりつつあるなか、開演のベルがなり、暗くなる。
客席にすわった母親が「里香」のすがたをさがす。
幕があがる。観客拍手。
音楽が流れはじめる。
馬「ヒヒーン」
里香、登場。
里香「リチャード王子、リチャード王子。どこにいってしまわれたの? リチャード王子。」
客席のざわめき。おどろく母親の大写し。
従者「姫様、姫様。」
プロンプターとして舞台下にひかえる「裕一」が「里香」をみあげる。
里香「どうしたの? じいや。そんなにあわてて。」
従者「姫様、たいへんでございます。(略)」
里香「まあ、またあのかたですの。結婚の話はきっぱりことわったはずだわ。」
裕一、舞台下から里香をみあげながら。
裕一「セリフ、おぼえとるやん。」
(略)
里香「心配ないわ。いざとなったら、リチャード王子がたすけてくれる。きょうもここであのかたと会う約束をしているの。」
客席。まだおどろいている母親。
馬「ヒヒーン。」
従者「うるさいぞ、馬。」
里香「おやめなさい。かわいそうよ。」
従者「すません。」
客席。笑い。
舞台上で物語が進行するなか、体育館に静かにはいってくる生徒たちの姿。すでに客席はいっぱい。立ち見もいる。("01:02:49")
従者「さ、お部屋へ戻りましょう。みな心配されていらっしゃいますぞ。」
里香「リチャード王子は、わたしを救うために、あんなお姿に。でも、きっと王子はご無事です。」
音楽、流れはじめる。
従者「なぜ、そうだと?」
里香「月は生命を暗示しています。満ちていくまでの上弦の月は生を、欠けていく下弦の月は死を。今宵の月は上弦のもの。かならずや生きて戻られるでしょう。」
里香、階段をおりる。
里香「リチャード王子、どうか、はやくお戻りください。わたしは…」
(間)
(間)
(間)
裕一、舞台下からプロンプターとして。
裕一「わたしは、一瞬でもながく…」
(間)
裕一、舞台下から。
裕一「わたしは、一瞬でもながく、あなたのおそばにいたいんです。」
(間)
(間)
裕一、客席からみえるぐらいに身をのりだしながら。
裕一「わたしは、一瞬でもながく、あなたのおそばにいたいんです。」
ざわめく客席。
(間)
里香、舞台下の裕一をみつめて。
里香「わたしも。」
見つめ合う里香と裕一。おどろく裕一。
里香、演技に戻る。
里香「リチャード王子、わたしは、一瞬でもながく、あなたのおそばにいたいんです。」
舞台下から里香を見つめる裕一。
(感想:ここ、もう言葉にできないすばらしさ。)
馬「ヒヒーン。」
里香「いま、王子の声が聞こえたような気が。気のせいね。」
従者「いいえ、気のせいではございません。」
舞台袖から裕一を呼ぶ友達二人。
裕一は、もとの姿に戻ったリチャード王子の衣裳を着させられる。
(略)
里香「神よ。もう、この馬のすがたのままでもかまいません。神よ。どうか、リチャード王子をお救いください。」
里香、杯をかたむける。
里香のあしもとに横たわっていた馬、舞台下に転げ落ちる。
舞台下から、もとの姿に戻ったリチャード王子(=裕一)登場。
驚く里香。
鐘の鳴るなか、音楽が流れはじめ、「里香」のたつ舞台に上がるリチャード王子(=裕一)。
里香「よかった。もとの姿に戻られて。」
向き合う二人。
里香をだき、キスをしようとする裕一。
里香、裕一の頬をたたく。
裕一「へ?」
里香「しっかりしてください。魔法のせいで、まだボウーとされているのですね。さあ、リチャード王子。夢の国に戻りましょう。」
裕一「はい。」
音楽はじまる。
観客拍手。
そのほかの役者たち、舞台に登場。
観客、スタンディングオベーション。
(感想:客席に注目してほしい。舞台がはじまったばかりの時には空席の目立った客席がこのときには満席で、立ち見も出ている。不思議なもので、よい舞台があると、なぜか人が集まるんだよね。本作はこういうところで細かな配慮がなされていてよいと思った。劇の背景音楽も好きだ。)
6.2.名作性・1~演劇の台本とそれ以降のふたり(その1)~《一瞬でもながく一緒にいる》~
「わたしは、一瞬でもながく、あなたのおそばにいたいんです。」
「わたしも。」
これは、プロンプターとしての裕一が里香にむかってしゃべり、それに里香がこたえたときのやりとりである。
里香にむけての《一緒にいたい》という裕一のセリフは、これが2回目である。1回目は砲台山の塔のシーン。「もう病院うつりたくない。どうせ助からないんだから(略)」という里香にむかって、あおむけにたおれた裕一がいうセリフがこれ。
(裕一)「あかんわ。生きるために手術せな。手術してくれる人かて、絶対出てくるって。おれもっといっしょにおりたい。」("00:42:30"~)。
この塔のシーンでは里香は裕一に回答をあたえず、一方の裕一は意識をうしなう。この場ではふたりはなにも約束していないのだが、演劇の場で、期せずして、《いっしょにいる》という約束がなされたのだ。
里香は芝居の終わったあと舞台裏で倒れ、タクシーで病院に運ばれる。裕一はそれに付き添う。廊下で里香の母親に向かって裕一がいうセリフがこれ。
(裕一)「おれ、約束しました。一瞬でもなごう、いっしょにおるって。」("01:14:51")
こういうあたり、文化祭で偶然生じた舞台でのやりとりをもとにその後の事態を展開させていくこの構成。これが《おまじない》にもつながるのだ。もう《神》。
6.3.名作性・2~演劇の台本とそれ以降のふたり(その2)~上弦の月~
劇中での里香のセリフにこんなセリフがある。
「月は生命を暗示しています。満ちていくまでの上弦の月は生を、欠けていく下弦の月は死を。今宵の月は上弦のもの。かならずや、生きて戻られるでしょう。」
そして、エンディングにはこんなやりとり("01:46:26"~)
(里香)「あの月、きっと上弦の月だよね。」
(裕一)「あたりまえやん。」
ここは、なにも考えずに、素直に「すばらしい」といいたい。
(注:じつは、このエンディングで画面にうつる(すなわち、裕一と里香が目にする)月は「上弦の月」ではない。というのも、裕一の部屋は西向きであるからだ。西の空に見えるあの形状の月は「下弦の月」なのだ。(裕一の部屋が西向きであることは、夕刻に裕一の部屋に差し込む光の角度と色からわかる("00:09:29")。裕一の部屋がかわっていなければ、この時点でも裕一の部屋は西向きのはずだ)。(ここでの映像をキャプチャすれば手っ取り早くこのシーンをしめすことができるのだが、それができない。残念)
なお、病院を抜け出して夜中に砲台山にきた2人が木々のあいだを塔に向かうときにも、画面に半分の月がうつる("00:37:28")。このときの月は「上弦の月」といってまちがいないと思う。
(注:作中に根拠を求めることのできない僕の個人感では、このエンディングでの月は「上弦の月」であってほしい。だから、2人が見ているのは「上弦の月」であると見なしたい。現実世界での知識にもとづけは、これは「下弦の月」のはずなのだが、このシーンでの月の月齢にまでリアリズムを持ち込む必要はないように思う。というのも、この作品はこの時点でかなりメルヘンチックになっているからだ。すなわち、2人がキスをし、クレジットがあがりはじめるとき、カメラは窓のそとから部屋のなかの2人をとらえるのだが、ここにいたって、窓のそとにあるはずのベランダの手すりが消えている。もはや、この絵は現実世界をえがきだしてはいないのだ。この一連のシーンは作品の作り手が美しいと感じたものを単純にうつしたのだ、と理解してもよいと思う。2人が見る月としてあの形状の月を画面にうつしだしたかったから作り手はあの月齢の月の絵をこのシーンで採用したのだ、と今の僕は好意的に解釈している。)
6.4.名作性・3~演劇の台本とそれ以降のふたり(その3)~キス、鐘の音、ライト~
上のつづき。裕一の「あたりまえやん。」のあと。
(里香)「裕一。」
(裕一)「うん?」
里香、裕一にキスをする。
ここで鐘がなる。
……この音は、リチャード王子がもとの姿に戻ったときになった鐘の音とおなじ。演劇の場では二人はキスをしなかったわけだが、ここではついに。。。そして、キスをする二人をまるく照らすライト。演劇のそれそのもの! うえにかいたように、このシーンはかなりメルヘンチック。これがすごくいじらしくて、僕は好きだ。
6.5.名作性・4~双眼鏡~
双眼鏡のなかに、消灯後の病室のベッドに眠れないままに横になっている裕一の姿がみえる("01:16:39")。これは、里香が(おそらくは屋上から)裕一の病室をのぞき込んでいるものだと簡単に推測できるのだが(だって、そのあと、ベランダ側から里香が裕一の病室にやってくるんだから)、里香がもっている双眼鏡といえば、物語の冒頭で里香が裕一から取り上げたものだと想像がつく。小物にも無駄がない。
(なお、ここで、「屋上から」というのは、作品の冒頭で("00:09:55")、里香が屋上にいつづけているのを裕一が自分のベッドから双眼鏡で発見するときの角度が、ちょうど屋上からのそれにほぼ一致するからである。)
6.6.名作性・5~『銀河鉄道の夜』~
「あきこさん」から『銀河鉄道の夜』をうけとった裕一は…
・外来待合室みたいなところのベンチで最後までページをめくった直後、また1ページ目からよみはじめる。("00:47:08"~)
・消灯後もペンライトの明かりで本を読みながら、そのまま眠ってしまう。("00:47:41"~)
・点滴の交換をしてもらっているさいちゅうも、本を読む。("00:49:33"~)
そして、二人があうことが「婦長」によって禁じられたなかで、「あきこさん」は屋上で二人があえるようにはからう。この屋上でふたりは『銀河鉄道の夜』の一節を朗読しあう("00:52:00"~)。裕一は『銀河鉄道の夜』を暗唱できるぐらい読み込んだんだよ。
(感想:ここでの「あきこさん」のやさしさ!)
そして、裕一の退院が決まり、里香も手術を受けることを決心したある日の夜。里香が裕一に『銀河鉄道の夜』をわたす。
(里香)「これあげる。わたしがいなくなって、さみしくなったら読んで。元気になるおまじないかけといたから。」("01:21:03")
そして、娘の「みく」がとりだしてきたのが『銀河鉄道の夜』…
すでに《演出ミス》を指摘した項で僕はこの《おまじない》の意味には言及しておいたが、…この《おまじない》… いいシーンだ…
6.7.名作性・6~医師になる決心を里香につげる裕一~
アルバムを見ながらの夏目の回想シーンのひとつ。
("01:32:17"~)
砲台山。
裕一が里香をおぶって塔にむかう。
(里香)「ここも一年ぶりだねー。わたしの体、あと何回手術すればいいんだろ。」
(裕一)「ちょー、まっとってぇな。おれ医者になって、里香の病気なおしてみせるわ。まだ勉強はじめたばっかやけど。」
(里香)「ほんとかなぁ。」
(感想:ここでの里香の「ほんとかなぁ。」がこれまた猛烈にかわいい。映画の冒頭で映し出されたふたりの写真は、二人の着ている服から、このときに撮影されたものだとわかる。この記事の「前編」でも指摘したが、裕一は二浪して医学部に入学したと考えられる。(二浪程度でなんだ)というかたがいるかもしれないが、こういう裕一の努力は僕の心をゆりうごかす。)
6.8.名作性・7~里香の不穏を暗示する舞台袖~
("01:08:38"~)
(みゆき)「里香ちゃん。」
(母親)「じゃ、おもてでまってるから。」
(みゆき)「びっくりしたわ。ぜんぶおぼえとるんやもん。」
(里香)「なんどもよみかえしたの。自分が演じること想像して。」
幕の内側でスタッフが盛り上がるなか、裕一、反対の舞台袖でひとりうずくまる。
(友人)「おい裕一、里香ちゃんとツーショットとったるで。元気だせや。」
みゆき、里香をつれて、向こう側から登場。
(みゆき)「わたしもいれて。」
里香のすがたが向こう側に一瞬うつるのだが、すぐにさえぎられて、みえなくなる。
裕一、その方向をみる。そこにはもう里香の姿は見えない。
裕一、里香のいるはずのところにいく。里香のカチューシャがおちている。里香が倒れている…
(感想:里香に異変がおこったことをこういうかたちで表現してみせる。革新的な表現ではないとしても、じつに効果的だとおもう。)
6.9.名作性・8~妻の死を暗示する雨の日のカーテン~
("01:38:03"~)
雨のなかを自転車で自宅マンションに帰ってきた「夏目」。
見あげると、自分の部屋のカーテンがそとにむかってまい、ゆれている。
夏目がドアを開け、部屋のなかにみたものは、布団に眠る「みく」と、ベランダに…
(感想:もう、これはこれ以上文字化するのが野暮だ。しかも、文化祭の舞台後に里香の不穏を察する裕一と重なる。)
6.10.名作性・9~台所の水の音~
("01:40:04"~)
「里香」の死後、二人きりになった「裕一」と「みく」。
お絵かきをする「みく」を見守り、おもちゃを片付けはじめる「夏目」。
水の流れる音が台所に…
(感想:もう省略。この水の音がねぇ。里香の倒れていた日の雨の音にも通じるんだよねぇ。言葉にするのが野暮すぎる。)
7.本作の映像の細かさ
本作は登場人物たちの行動をその日その日の時間の経過(=太陽の動き)にあわせて丁寧にえがきだしている。そういう点で本作の制作陣のロケーションへのこだわりはみごとである。そこで、ここではそうした丁寧な時間の経過の描写がわかる箇所を紹介したい。《時間》のまえに、まずは《空間》から。
7.1.病院、高校、砲台山の空間的な配置
里香の病室は南むき(626号室)
裕一の病室は西向き
砲台山は病院の南側にある
裕一の通う高校は病院の北側にある
なお、この病院の建物は正方にちかい回廊状の部分をもつが、子午線に平行にたってはおらず、時計まわりの方向にすこしずれている。
(作中にうつりこむ建物の映像(とくに屋上の映像)から、この病院のおおよその構造を再現し、里香と裕一がどの方角をむいて会話をしたのか、明示することができる。手書きでもよいから、その図を描いて、その図をここにはりつけておくのも作品の理解のために有効だと思うが、いまはやらない。)
(参考)
病院名:伊勢市立若葉病院
(屋上に赤十字マークあり)
7.2.時間の経過の描写
つぎのみっつだけ紹介しておく。
(A)
裕一と里香がはじめてであった日。
(3つの時間帯に屋上での出来事がすすむ。)
1.ベンチに座った里香を裕一がはじめてみとめたとき……太陽は真上に近い。光の色は白い。(昼食直後だろう)
2.里香の要求に応じて裕一が本をデリバリーしたとき……太陽はそれよりも西のほうに傾いている(里香の体の影の変化がその根拠)。
3.裕一が双眼鏡で屋上の里香をみとめたとき……日差しはオレンジ色。縁取りの確かな影も生じない。
(B)
『銀河鉄道の夜』を朗読しあった日。
1.裕一と里香が久しぶりに顔をあわせ、『銀河鉄道の夜』を朗読しあったとき……午前(光の角度、影のできかたからわかる)
2.その後、裕一とあきこさんが里香の転院についてはなしをしたとき……太陽は真南あたり(あるいは、それよりすこし西がわ)(根拠は上に同じ)
(C)
文化祭の日。
1.ステージ上で大道具の設置がすすんでいるさいちゅうの体育館の時計…「13時30分」
2.開演直前の体育館の時計…「14時50分」
3.芝居後に倒れた里香を病院におくるタクシーのなかでの母親の腕時計…「16時45分」
文化祭の日の映像についてさらにこまかくいえば。
4.模擬店の列の前を通過する裕一と里香を照らす日差しの向きが、行きと帰りでは異なる。つまり、行きが昼時と解釈できる時間帯だとすれば、帰り(=里香をだいて裕一が走るシーン)はそれより西の方向に太陽が移動している。このことは影の向きわかる。
5.裕一の高校は病院の北側にある。となると、文化祭で倒れた里香を乗せたタクシーは北から南に向かうことになる。この時間帯が「16時45分」ごろだとすると、日差しはタクシーの右側から差し込むはず。そして、実際、本作の映像は、右側から日差しをうけるタクシーの内部をうつしだす。おみごと!
8.つけたし~「あきこさん」のやさしさ~
本作には「あきこさん」のこまかなこころづかいがいくつもえがかれる。そのうちのひとつだけを、あえて、ここに記録しておく。
("00:49:38"~)
(あきこさん)「シライシさんの洗濯物とりにいってやらないかん。てつどってくれやん。」
(裕一)「へ。なんで」
(あきこさん)「リハビリになるやん」
(略)
屋上
(あきこさん)「3分たったら、もどってくるで。」
これは、裕一と里香のあうことが婦長によって禁止され、また、里香の転院が院長によってすすめられたあとのことだ。
この時間は午前中だ。午前中に洗濯物をとりに屋上にいくなんて、ありえない。ありえないけど、口実。「あきこさん」は、裕一と里香が屋上で会えるように、こんな口実をつくったんだよね。
こういうこころづかい、僕は好きだよ。
9.まとめ
本作は名作です。
〔謝辞〕
僕が本作の存在を知ったのは、「ブタネコのトラウマBlog版」(URL:http://buta-neko.net/blog/)に掲載されたつぎの記事を拝読したことによる。
「半分の月がのぼる空」(掲載日:2010年12月30日)
僕のブログを、あるいはtwitterをごらんになられているかたはすでにお気づきと思うが、僕はテレビをみない。芸能ニュースにまったく興味がなく、いま話題の芸能人のことなどほとんど知らない。最新ドラマ、最新映画の動向にまったく無関心で、そのほとんどについて、そのタイトルさえ知らないでいる。
ブタネコ氏のこの記事を拝読した日にたまたまツタヤにいった僕の目にとまったのが、本作である。本作のパッケージが目立つように新作コーナーに配架されていたとはいえ、氏の記事を拝読していなければ、僕は本作を手にとることがなかったはずである。よい作品を視聴するきっかけを僕にあたえてくださったブタネコ氏への感謝の気持ちをこめて、このことをここに明記しておく。