新編 膝枕

智に働きたいと思いながら、なんかやってます。

■横溝正史『獄門島』(その3)

横溝正史『獄門島』(その1)」(掲載日:2013年10月11日(金))

横溝正史『獄門島』(その2)」(掲載日:2013年12月1日(日))

のつづき。


* * *

「その2」では章立て、および区切りの挿入箇所について、3つのテキストのあいだの異同をしめした。

「その1」でも異同をしめしたが、それは明確な誤植であり、読み手が文脈から容易に判別できるものであった。

この「その3」ではそのほかの異同をしめすことにする。

漢字か平仮名かという、日本語の表記にもちいる文字の選択の違いにはふれない。

3つのテキストの比較になるので、ここでは3つのテキストをセットにして引用していく。

引用の順番は角川文庫、講談社出版芸術社にし、それぞれ角、講、出と略記する。

(ここで提示する異同は僕がたまたま気づいたものである。作品の全体にわたって3つのテキストを比較したのではないから、これらのテキストにあるはずの異同のすべてを網羅したものではない。)

- - - - -

A

(A-角)

「(略)そのうちに、島の若いもんに行ってもらわにゃならん」

「ほんに。……なんならわしが行ってきてもよござります。それでも吊り鐘が無事にもどって、おめでとうござりますな」(p.12)

(A-講)

「(略)そのうちに、島の若いもんにいてもらわにゃならん」

「ほんに。……なんならわしがいて来てもよござります。それでも吊り鐘が無事に戻って、お目出度うござりますな」(p.9)

(A-出)

講談社と同じ)(p.13)

「行ってもらわにゃならん」と「いてもらわにゃならん」、「行ってきても」と「いて来ても」。「いって」と「いて」の違い。

【参考】

なお、角川文庫でも別の箇所では「いて」となっており、「行」にはふりがなで「い」が添えられている。

「金田一さんがああおっしゃりまするで、わたしはひとはしり、幸庵さんを呼びに参じます」

「ああ、ふむ、そのことか。……御苦労じゃが、それでは、行てきておくれ」(pp.84-85)

B

(B-角)

「了沢さん、了沢さん、ちょっとあなたにお尋ねしたいことがある」

「はい、金田一さん、なんでござますか」

「花ちゃんが殺された晩のことですがねえ。あれは千万太君のお通夜の晩のことでしたね」

「はい、さようでござました」(p.306)

(B-講)

「了沢さん、了沢さん、ちょっとあなたにおたずねしたいことがある」

「はい、金田一さん、なんでござますか」

「花ちゃんが殺された晩のことですがねえ。あれは千万太君のお通夜の晩のことでしたね」

「はい、さようでござました」(p.155)

(B-出)

講談社と同じ)(p.247)

「ござります」と「ございます」。「り」と「い」の違い。(*注7)

C

(C-角)

気ちがいだから、あんな変なことをしたのだという意味ならば、了然さんのあのときもらしたことばは、

「気ちがいだから仕方がない。……」

 で、あるべきはずだ。しかし、耕助の耳にしたのは、たしかにそうではなくて、

「気ちがいじゃが仕方がない。……」

 と、いうのであった。

 なぜだろう、なぜだろう。……(p.98)

(C-講)

気ちがいだから、あんな変なことをしたのだという意味ならば、了然さんのあのときもらした言葉は、

「気ちがいだから仕方がない。……」

 で、あるべき筈だ。しかし、耕助の耳にしたのは、たしかにそうではなくて、

「気ちがいじゃが仕方がない。……」

 と、いうのであった。

 なぜだろう、なぜだろう。……(pp.51-52)

(C-出)

気ちがいだから、あんな変なことをしたのだという意味ならば、了然さんのあのときもらした言葉は、

「気ちがいだから仕方がない。……」

 で、あるべき筈だ。しかし、耕助の耳にしたのは、たしかにそうではなくて、

「気ちがいじゃが仕方がない。……」

 と、いうのであった。

 なぜだろう、なぜだろう、何故だろう。……(p.81)

出版芸術社だけ「なぜだろう」がみっつある。

D

傍点の違い。

上の「C」のアンダーラインの箇所を見てほしい。

これはテキストでは傍点が付されている箇所である。

(HTMLのタグでは傍点を付すことができないので、ここではアンダーラインで代用してある)

出版芸術社にあっては「だから」と「じゃが」の両方に傍点が付されているのに対して、角川文庫にあっては「じゃが」だけに傍点があり、講談社にあっては「だから」だけに傍点がある。

E

(E-角)

「だれが吸うのかと尋ねたら……?」

「早苗のいうのに、伯父さまが……」

 耕助は思わずあっと息をのんだ。懐紙を持った手がはげしくふるえた。

お、和尚さん、早苗さんの伯父さんというのは、あの座敷牢にいるという……」(pp.93-94)

(E-講)

「誰が吸うのかと訊ねたら……?」

「早苗のいうのに、伯父さまが……」

 耕助は思わずあっと息をのんだ。懐紙を持った手がはげしくふるえた。

お、和尚さん、和尚さん、早苗さんの伯父さんというのは、あの座敷牢にいるという……」(p.49)

(E-出)

講談社と同じ)(p.78)

「和尚さん」という呼びかけが、角川文庫にあっては一回、講談社出版芸術社にあっては二回。

F

(F-角)

土砂降りの中を、傘をじょごにして駆けつけてきたのは、幸庵さんに村長の荒木真喜平氏だった。(p.98)

(F-講)

土砂降りのなかを、傘をじょごにして駆け着けて来たのは、幸庵さんに村長の荒木真喜平氏だった。(p.52)

(F-出)

土砂降りのなかを、傘をじょうごにして駆け着けて来たのは、幸庵さんに村長の荒木真喜平氏だった。(p.82)

「じょご」と「じょうご」のちがい。また、角川文庫だけが「じょご」に傍点を付している。

G

(G-角)

 おお、なんということだ 耕助にとって文字どおりそれは青天の霹靂であった。(p.305)

(G-講)

 おお、なんということだ 耕助にとって文字どおりそれは青天の霹靂であった。(p.155)

(G-出)

 おお、なんということだ 耕助にとって文字どおりそれは青天の霹靂であった。(p.247)

「?」と「!」のちがい。

H

(H-角)

「お勝つぁん、どうかしたんか。なにをうろうろしてるんじゃ」

「あ、竹蔵さん花ちゃんを見やあしなかった?」

「花ちゃん花ちゃんはさっきそこらをうろうろしてたがな」(p.69)

(H-講)

「お勝つぁん、どうかしたんか。何をうろうろしてるんじゃ」

「あ、竹蔵さん花ちゃんを見やあしなかった?」

「花ちゃん花ちゃんはさっきそこらをうろうろしてたがな」(p.38)

(H-出)

「お勝つぁん、どうかしたんか。何をうろうろしてるんじゃ」

「あ、竹蔵さん花ちゃんを見やあしなかった?」

「花ちゃん 花ちゃんはさっきそこらをうろうろしてたがな」(p.59)

「あ、竹蔵さん。」と「あ、竹蔵さん、」における「。」と「、」のちがい。「花ちゃん。」と「花ちゃん?」における「。」と「?」のちがい。

(I-角)

 いかにそれがくせとはいえ、そのときの了然さんの放言は、いささか不謹慎のそしりをまぬがれなかった。

 むざんやな冑の下のきりぎりす

 なるほどおもしろい見立てである。(p.167)

(I-講)

 いかにそれがくせとはいえ、そのときの了然さんの放言は、いささか不謹慎のそしりをまぬがれなかった。

  むざんやな冑の下のきりぎりす

 なるほど面白い見立てである。(pp.85-86)

(I-出)

講談社と同じ)(p.136)

「むざんやな冑の下のきりぎりす」の行の頭が、角川文庫にあっては一字下げであるのに対して、講談社出版芸術社にあっては二字下げになっている。(角川文庫にあっても、俳句をしめすときの別の箇所では二字下げになっている。)

- - - - -

以上、目についた異同を示した。

みられるように、章立てに限っていえば講談社出版芸術社は共通であったが、それ以外の点では講談社出版芸術社のあいだにも違いがある。(*注8)

より深刻な違い、それほど深刻ではない違い… レベルはさまざまだが、ひとつの言語作品としての『獄門島』にはきちんとした校訂が必要であることが、これでわかると思う。

(「横溝正史『獄門島』(その4)」につづく)

*注7

 「A」にも「ござります」があるが、そこでは「角川文庫」「講談社」「出版芸術社」ともに「ござります」となっているし、作品全体をみまわしてみても、ほとんどの箇所で「ござります」となっている。「獄門島」という地域での方言的表現として「ござります」があるのだろう。実際の発話においては発音が「ございます」に類似してきて、「り」と「い」の発音の区別がつきにくくなるケースがあるのだとしても、「り」と「い」はやはり別の文字であり、別の音声をあらわすものである。視覚的に「り」と「い」の文字のかたちが似ているとしても、やはり、別の文字である。

 ちなみに、「講談社」では、一人の発話のなかで「り」と「い」が混在している箇所がある。(「角川文庫」では「り」で統一している。)

「へえ、ようござます。なあに、そんなこと造作ござません」(角川文庫p.313)

「へえ、ようござます。なあに、そんなこと造作ござません」(講談社pp.158-159、出版芸術社p.253)

 どちらが横溝の原稿をただしく反映しているのか、横溝の手癖をも視野にいれて、テキストを校訂する必要があるだろう。

*注8

 漢字と平仮名の選択、同一の訓、同一の音をもつ漢字の選択の点で講談社出版芸術社は、僕が見たところ、同一であり、出版年のあたらしい出版芸術社講談社を底本にしているように感じられる。

 なお、講談社出版芸術社とのあいだには字体の違いがあるが、それは、たとえば「その2」でしめしたような「跫音」と「足音」のちがい、あるいは、「髯」と「髭」の違いのたぐいである。それぞれ、前者が講談社であり、後者が出版芸術社である。