新編 膝枕

智に働きたいと思いながら、なんかやってます。

■横溝正史『獄門島』(その7)

横溝正史『獄門島』(その6)」(掲載日:2013年10月25日(金))のつづき。


獄門島』は推理小説の最高傑作であるという評価がさだまっているらしい。

僕は推理小説をほとんど読んでこなかったから、他との比較においてはじめて意味をなすはずの「最高傑作」云々という評価にたいする是非を、いかなるかたちでも表明することができない。

しかし、推理小説というものが、犯人のアリバイを覆しながら、その犯行の動機や犯行の具体的なプロセスをときあかしていくものであるとすれば、それらのいちいちの要素の描写や配置の技巧について、統一体としての一個の作品全体を対象にしてではなく、その部分部分を対象にして、ある程度言及することはできるだろうし、より一般的に、あらゆる文学作品と同様に、そこに登場する人物が一定の性格をもち、一定の環境のなかで行動するものであるとすれば、そうした性格と行動の首尾一貫性、他者との相互作用のなかでの性格と行動の変容のさまを描き出す手法について評価めいたことをいうことはできるだろう。

そういう視点で本作を眺めると、疑問を呈したい箇所がいくつもある。

疑問を呈したい箇所というのはつまりは本作の《欠陥》と見なしうる箇所ということである。

「最高傑作」との誉れが高いらしい本作について《欠陥》を指摘するのはおそらく怖いもの知らずなのだろうが、僕も本作をかなりまじめに読んだので、まじめに批判的に考えたことのいくつかを、ここに正直に記録しておこうと思う。

* * *

まずひとつめ。

「床屋の清公」が山狩りに参加していることに金田一が気づくプロセスの不自然さについて。

山狩りにくわわっている金田一が床屋の清公の存在に気づくのは次の箇所である。

 半月はいま、摺鉢山の肩にかかっている。空には星がふるえるようにまたたき、銀河がながく尾をひいて、乳色にけむっている。獄門島はいまうすじろくいぶされた銀色の世界である。そのなかを、点々として炬火が、狐火のようにゆれながら、山の斜面をはいのぼっていく。摺鉢山のてっぺんには、昔の海賊の砦の跡がある。おりおり若者たちのあげる鯨波の声が、あちこちの峰にこだまして、遠雷のとどろきのようにきこえる。

 磯川警部に引率され、黙々として山路をたどっていた金田一耕助は、一行のなかに床屋の清公がまじっているのに気がついた。

「やあ、きみもいたのか」

 耕助が白い歯を出してわらうと、清公は首をすくめてにやにやしながら、

「へッへッへッ、なにしろ近来の大捕り物ですから、床屋の清ちゃん、じっとしちゃいられませんや。しかし、旦那、たいへんなことになりましたねえ」(pp.237-238)

本鬼頭を出発してだいぶ時間がたってから、金田一は清公の存在に気がついた。

たしかに、山狩りの人たちは「狩り出し部隊」と「だんまり組」とにわかれ、「狩り出し部隊」は炬火をともして声をあげながら山路をのぼっていったのに対して、「だんまり組」は灯りをともさずに静かにすすんでいた。だから、「だんまり組」の金田一たちの一行は、視覚的にも聴覚的にも互いにメンバーを判別するのがむずかしかったともいえる。金田一が「だんまり組」であったことは、そのなかに顔なじみの清公がいることに金田一がすぐには気づかなかったことを根拠づける伏線であるといえなくもない。

しかし、だ。

本鬼頭を出発する前の玄関での出来事を確認してみたい。

 玄関へ出てみると、あらかた出発したあとで、竹蔵のひきいている一隊と、警部の手につく一隊が、それぞれ六、七名ずつ残っているきりだった。

「金田一さん、さあ、出発しましょう」

「いや、ちょっと待ってください。このうちの三、四人はここに残ってもらいたいのですがね」

「どうして?」

「どうしてって、山から狩り出された男が、いつなんどき、この屋敷へ逃げこんでこないものでもありません。そうなると不用心だから、三、四人残って、家の周囲を見張っていただきたいのです」

 もっともな耕助のことばに、警部もむろんいなやはなく、二つの隊から二人ずつ選抜すると、その四人に本鬼頭の警戒にあたらせることになった。(p.234)

金田一は出発前に人数を冷静に把握し、役割分担を警部に提案している。床屋の清公がこの時点でここにいたのだとすれば、金田一が清公の存在に気づかないのは不自然である。

かりに金田一たちが本鬼頭を出発したあとに、清公が金田一のいるだんまり組にもぐりこんだのだとすれば、その場合には、すぐに清公のほうから金田一に話しかけることをしなかったという点で、清公の性格とこれまでの行動との一貫性がうしなわれてしまう。

床屋の清公は自分の知っていることを誰彼なくしゃべりたがる人間である(*注15)。そんな人間が嬉々として参加した山狩りの場で金田一から話しかけられるまで自分の存在を主張しなかったということが僕には不思議で仕方がない。

山狩りとして薄暗がりの山のなかを歩いているさいちゅうに金田一によってその存在がみとめられ、おしゃべりをはじめる清公。

彼のおしゃべりが金田一に重要なヒントをあたえるものとなるのだから、山狩りという場に清公が居合わせることが本作の推理の展開において重要なことであることはわかる。

しかし、金田一が清公の存在に気づくのが山狩りの山中でのあのタイミングであったのはなぜなのか。

そこを考えると、ご都合的なものを感じないわけにいかなくなる。

人間の行動をその性格との連関、整合性のなかにえがきだしてく文学作品として、構成要素をもっと丁寧に配置してほしかったと思う。

* * *

ふたつ目。

吊り鐘のなかでの雪枝の姿勢について。

「吊り鐘の力学」によって、吊り鐘のふちが地面から一尺七、八寸ほど持ち上がることがわかった。そして、雪枝は殺された後で吊り鐘のなかにいれられたこともわかった。

では、吊り鐘のなかの雪枝はどんな姿勢であったのか。

 ひとびとのくちびるからまた大きなため息の合唱がもれた。ざわめきもまた、さきほどよりひとしお大きかった。それも無理ではないのである。持ち上がった吊り鐘の下から、派手な友禅の色彩が、におうようにのぞいている。一同の立っているところからでは、ひざだけしか見えなかったが、それだけで十分であった。雪枝は吊り鐘のなかに端然と座っているのである。(p.175)

雪枝は吊り鐘のなかで端然と座っていた。

はたして、死んだ状態の人間にたいして《端然とすわる》という姿勢をあたえることが可能なのか。

現に金田一たちも「おしこむ」という言い方を多用している。それは、死んだ雪枝を吊り鐘のなかにいれることは「おしこむ」というしかたでしかできないからであろう。吊り鐘のなかにおしこまれた雪枝が《端然とすわる》という姿勢をとることはどうすれば可能になるのか。僕には不可能であるとしか思えない。吊り鐘のしたに雪枝の姿をみとめた人々の驚きを誇張するために、書き手が雪枝に死体としては無理な姿勢をとらせた結果なのではないかと思う。《欠陥》とまではいかないとしても、適切な描写ではないだろう。

* * *

みっつ目。

山狩りにあっておいこまれた海賊の男はつぎのようなかたちで谷へ転落していく。

(ちなみに、「男の左側は深い谷」(p.253)であった。)

 清水さんが一発撃った。すぐ相手も撃ちかえしてきた。そこへ応援に駆けつけてきたお巡りさんが、二、三発つづけざまにぶっ放した。

 と、そのときである。突如、高い悲鳴が虚空をつらぬいたかと思うと、男の姿がもんどり打って、左に見える谷のなかへ転落していったのである。

「しまった!」

 一同が谷をのぞくと、男の姿はあちらの岩角、こちらの灌木につきあたって、毬のようにはねっかえりながら落ちていく。谷の向こうから、ワーッという歓声が起こった。

「とにかく下へおりてみよう」

 一同は、径をもとめて木の根や岩角につかまりながら、斜めに谷をおりていった。ちょうど谷のその側面はまともに月光を浴びているので、それほど危険なわざでもない。一同はやっと谷底へたどりついた。谷といってもそこは水が流れているわけではなく、露出した岩から岩をつづって、一面に灌木がおいしげっている。(p.254)

このようにして深い谷を転落していった男の死体の検分の結果はつぎのとおりである。

「さっきあの男の死体を発見したとき、警部さんのいったことばをきかれたでしょう。あの男は弾丸にあたって崖から落ちたのではなかった。あの男の後頭部には、恐ろしい裂傷があった。頭蓋骨もこわれていた。ところがあのへんにはどこにも、その傷に相当するような石ころや岩角はなかった。それのみならず……」

 と、耕助は息をうちへ吸いこむと、

「その傷の状態というのが、花ちゃんの場合とたいへんよく似ているんですよ。つまりあの男は、花ちゃんを殴って昏倒させたのと同じ凶器で殴り殺されたのかもしれないのです」(p.280)

たしかに、その死体の傷は花子を殴ったのと同じ凶器で殴られたと見なしうるものであったのだろう。しかし、深い谷をあちこちの岩角につきあがりながら落下していった男の死体に対する検分として、あまりにも単純すぎる。

それに、金田一の最終的な推理によれば、その男を殴ったのは和尚であるが、このときの和尚はどうして誰にもその姿を見られなかったのか。

谷の向こう側から歓声があがったことからわかるように、谷の向こう側には人がいた。つまり、谷の向こう側からこちら側を見ている人がいたわけである。そして、この日の月は半月であったが、その半月は谷のこちら側を照らしていたのであるから、谷の向こう側からは谷のこちら側の様子がはっきり見えていたはずである。

現に男が毬のようにはねっかえりながら落ちていく様はしっかり視認されている。それだけの明るさがあったのだ。そして、谷をおりていくのも「それほど危険なわざでもない」というのは、それだけ明るかったからである。

そのような月光の状態で、どうして和尚はだれにも目撃されることなく海賊の男を鉄如意でなぐることができたのか、不思議である。

空に浮かぶ月、地形、人物の配置にかんして横溝に計算違いがあったのだろう。

こうした計算違いが放置されているのだとすれば、ひとつの作品のなかでの登場人物たちの知覚をふくめた行動の整合性が保たれていないという点で、やはりこれは本作の《欠陥》とみなさないわけにいかない。

(この稿、未完)

*注15

 たとえば、「太閤様の御臨終」(pp.31-44)での初対面の金田一へのおしゃべりのさま、そして、月代が殺された晩の翌日、魂の抜けたもののように歩いていた金田一をよびとめる清公の行動(p.285)を見ればよい。