■映画「薄れゆく記憶のなかで」をみた。
映画「薄れゆく記憶のなかで」をDVDで視聴した。
脚本・監督:篠田和幸
公開:1992年
僕が本作を知って、DVDを入手し、初見をしたのは、2012年の4月のことである。
初見後すぐに感想記事を書かなかったのは、公開してもいいと自分で思えるような感想を本作にいだかなかったから、というのが、一番正直なところであり、文章にまとめるとしたらどんな形にしようかと少し考えはしたが、結局、そのときはまったく文字化しなかった。
それから一年半が経過。
本作のDVDのパッケージはずっと目に見えるところにおいてあったから、本作のことを忘却したわけではないが、再見しようとはあまり思わず、でも、なんらかの感想は述べたいとは思ってきた。
で、ある事情でまとまった時間ができてしまったこの時期、思い立ってやっと本作を再見した。
DVDのチャプターでは「夏の帰り道」。
香織が和彦といっしょに学校から帰る。
香織は和彦の話しかけに「うん」としか答えない。
小さな声でオドオドと「うん」と繰りかえしていた香織も、和彦の次の言葉に対しては、うつむきながらも笑顔になり、明るい「うん」を言うことができた。
「「うん」ばっかりやな。」("00:32:44")
初見時、再見時ともに、香織のこの「うん」がとてもかわいらしいと思った。
再見をしてあらためて思ったのは、本作に登場する男たちにはどうにも共感できないということである。
和彦、和彦の父親、香織の父親、香織の弟、和彦の友だち、和彦の学校の教師…など、本作の男たちの言動にはどうしようもなく不愉快なものを強く感じずにはいられなかった。
とくに香織の父親。
オーボエの練習をしている香織のところにきた父親がいうセリフ。
「男とつきおうとるのか。傷つくのはおまえやぞ。」("00:52:18"~)
(そんなのはわかっているんだ。父親のおまえがいうな)と僕は思った。
香織の胸のヤケドのことには香織の父親が深く関わっているようであるが、そのことは作品のなかでは明確にはしめされない。
でも、父親に対する香織の終始一貫した振る舞いのよそよそしさ、とげとげしさから、二人のあいだでなにかがあったことは感じとることができる。ことによると、父親の不手際で娘の香織がヤケドをしたのかもしれない。
胸のヤケドについて父親に責任があろうとなかろうと、父親として娘のことを思うのなら、今後もいかんともしがたい胸のヤケド跡ゆえに娘が幸せな方向にむかいがたいことを憂いつつも、娘が好きな人にアプローチできたことを否定するような言辞を吐くことに、僕は非常に不愉快なものを感じたというのが正直なところであった。
娘を思う父親の気持ちもわからないではない。
娘は胸のヤケドのことがあるから、好きな男ができても、それが原因で男にふられる蓋然性が高い。娘にはふられて傷ついてもらいたくない。でも、それでは娘は幸せになれない(いや、幸せの幅が狭くなってしまう)。でも、娘には娘自身が望むかたちで幸せになってもらいたい。でも、やっぱり男関係では傷ついて幸せになれないことも考えずにはいられない。ゆえに、忠告をしないわけにいかない。でも、それでは娘は幸せになれない。でも、娘には消えない胸のヤケド跡がある…
「でも… でも… でも…」の繰り返しから離れることができず、娘のヤケドという過去の出来事にかんする呵責の念にさいなまれ続ける父親も気の毒ではあるし、その「でも… でも… でも…」の逡巡のなかで娘に忠告めいたことをいわずにはいられない事情もわからなくはない。
娘への忠告も、「でも… でも… でも…」の逡巡のひとこまであり、父親が娘を大切に思うがゆえの呵責の念のあらわれではある。
が、娘のことを思うのなら、娘を否定するようなことをいっさい言わないでほしい。
そうした呵責の念を、あるいは、呵責の念のひとこまを言葉で表明しないことが無責任さの表れだと考える価値観があり、なかには、そうした価値観のうえにたって、「なにも考えていない、無責任だ」と意気軒昂に攻撃して恥じない人もいるが、外野からなにをいわれようとも、それは自分の内面にとどめておくべきだと僕は考えてしまうので、それをそとにあらわしてしまった父親の行動には納得できないのだ。
娘を大切に思うのなら、忠告をすることなしに、どこまでもだまって見守ることしかできない… それはとてもつらい… でも、それしかできない。その事実を受け入れるしかない。
・・・と僕はこれまで思っていたし、今も思っているのだが、このところ、どうもこの点について僕にも変化があらわれてきたのではないかと感じていることも僕にとっては事実である。
忘却したくても忘却できないこと、忘却することが許されないだろうこと・・・
僕自身にも過去の行動について後悔することはたくさんあり、それらを記憶のなかに蓄え続けて、こんにちに至る。
忘れたほうが自分のためには良いだろうと思う。
でも、忘れられない。
そんなことがたくさんある。
それにとらわれることがとてもしんどい。
そうしたことについての記憶が薄れていくこと、あるいは、なんらかのかたちで記憶が変容していくこと、それらの片方が進行することで、あるいは両方が相伴って進行することで、自分のなかで後悔の気持ちを整理することができるようになること・・・
時間の流れがそうさせてくれるのかもしれないが、そうした時間の流れに身をまかせることをやっと自分もうけいれることができるようになってきたのかな・・・
そう感じることができて、僕はすこしラクになっていると思う。
はっきり言って僕は本作には感動してはいない。
だが、頭のなかでの理屈として、本作のエンディングにおける和彦に(よかったね)と言えたほうが好ましい。
それが初見時と再見時とで変わらない僕の感想になる。
僕は本作に感動していないが、作品のテーマとイデーを考えると、視聴後に僕がこうしたことを考えざるをえなかったということは、本作が自分のテーマとイデーを視聴者に正確に伝え得ているからだということが言えるわけであり、そういう意味で本作はよくできた作品なのだろうと思う。
もうひとつ、初見時と再見時で変わらずに思ったこと。
それは病院のベッドに横たわる和彦の脇にすわった母親の無神経さである。
息子が大けがをして、動けずにいる。そして、夫のほうはビルが流され、事業がどうなるかわからない。
そんな状況下で、けばけばしい、ど派手な装飾、化粧、服装。
それだけならまだよい。
それにくわえて、次のセリフ。
「和彦の友だち、だあれもお見舞いに来うへんね」("01:12:17"~)
触れてほしくないところに土足で踏み込む無神経さに不愉快になる。
そして、和彦の退院の日。
誰も付き添いがいない。
和彦は一人で病室をでていく。
和彦の「忘却したい」人間関係がここに濃縮してあらわれていると思う。
和彦に対する友だちの薄情さは作品のいたるところに描き出されている。
親族内部の人間関係、友だち関係ともに、「和彦」にとってはありのままには記憶にとどめておきたくはないものだ。
おぞましいまでの人間の浅薄さ、薄情さを淡々と描いているという点で、本作は怖い作品だと思う。
夜の病院のベッドで「薄雪草」のことを思い浮かべたであろう「香織」。
おそらく、和彦につらなる記憶としての「薄雪草」がここであらわれるということは、香織は和幸にまつわる記憶を、その程度はわからないが、取り戻したということをしめしているのだろう。
10年後、自分の息子に「かずくん」と呼びかける香織がいる。
香織はかなり早くに自分の記憶を整理し、うけいれることができたのだろう。
和彦は香織の記憶についてはありのままにうけいれることができずにいたが、ここでやっと自分の記憶を整理するきっかけが得られた。
こうまとめてしまうと、和彦を自分のことしか考えない利己的存在としてとらえることにもなりかねないが、どうしようもない自分の思いをそとからの刺激によって落ち着かせることができるというのは、それはそれでありがたいものだ。
内面の自然的変容も、内面の変容を刺激する外部との偶然的出会いも、自分の身に起こってくれるのなら、起こってほしい。
そういう幸せもあると思う。
そういう偶然をありがたいものとして受けとめることがやっとできるようになったきた。
僕は自分の内部にそういう変化を感じる。
最後につけたしをひとつ。
この記事の最初のほうで、僕は本作の男たちに共感できないと書いた。
たとえば、学校から帰ってきたばかりの香織の部屋にやってきた弟が「ばけもの、ばけもの」と言う。
姉にむかって「ばけもの」と言う弟の行動は弟の幼さに還元することができない。
香織の家庭が機能していないことを物語っていると思う。
僕が香織の父親に共感できないのは、このような家庭を作ってきた父親の振る舞いの歴史が垣間見えるからである。
この記事は以上。