新編 膝枕

智に働きたいと思いながら、なんかやってます。

■横溝正史『獄門島』(その5)

横溝正史『獄門島』(その4)」(掲載日:2013年10月16日(水))のつづき。


* * *

衒学的な表現で僕は「清水」が獄門島の魔術にかかっていると前の記事でのべた。

魔術にかかった彼の苦悩が表れている箇所をここに引用しよう。

「それはありがとうございます。しかし、清水さん。あなたはなんだって、そんな恐ろしいことを考えたのです。一さんという人は、そんな恐ろしいことをやりかねない人物なんですか」

「私は知らん。なぜそんな恐ろしい疑いが、私の頭に宿ったのか私にもわからない。万事はこの、いまいましい獄門島のせいでしょうよ。なあ、金田一さん、いつかも言うたとおり、この島の住人どもは、みな常識では測り知れぬ奇妙なところを持っている。貝殻のような堅い鎧のなかに、本土の人々などの思いもよらぬような、変てこな考えを包んでおりますのじゃ。それにあの戦争ですて。みんな大なり小なり気がちごうている。こういう私も気がちごうているのかもしれん。そうでのうて、こんな恐ろしい考えが私の頭に宿るはずがない」

 清水さんはそういって、かなしげに自分の首をなでながら左右へふった。(pp.126-127)

清水自身、みずからの狂気を自覚しながら、それをどうすることもできずにいる。それを自覚しているがゆえの悲しさもある。

そんな清水は猜疑にかられて金田一を留置場にぶち込んでしまうが、金田一を留置場にぶち込んでいた晩に「雪枝」が殺される。

小心な清水は落ち込まずにはいられず、「おそろしく憔悴し」(p.164)、顔を「ベソをかくようにゆが」(p.164)ませるのである。

金田一を信じることもできず、疑いきることもできない清水が崖の端に腰をおろし、痛々しいまでに苦慮しているさなか、水上署のランチを目にした瞬間の清水の豹変ぶりをみるがよい。この豹変のなかに清水の狂気があらわれている。

 清水さんは崖の端に腰をおろして、しきりに爪をかんでいる。二晩眠らぬ夜がつづいたので、げっそりと面やつれがしているうえに、この人らしい疑惑に身を責められているので、苦慮のほどはいたいたしいばかりであった。(略)

 清水さんはしばらく無言のまま、眼じろぎもしないで耕助の眼を見つめていたが、やがてふうっとため息を吐くと、

「金田一さん、わしはあんたを信ずることにしよう。あんたの眼は、うそをついてるようではない。……しかし、……しかし金田一さん、あんたはいったいだれじゃ、どういう人なのじゃ。なんの用があってこの島へ、……こんないまいましい島へ来なすったのじゃ。わしにはそれがわからん。こんないやな、恐ろしいはなれ島へ……あ!」

 不意に清水さんはすっくと立ち上がった。それから耕助のそばをはなれて、小走りに崖っぱなへ出ると、小手をかざして沖のほうへ眼をやった。

 すぐ隣の、真鍋島の島影から、いましも一艘のランチが現われた。ポンポンポンポンポン。――ポンポンポンポン――うすい水蒸気の輪を空中に吐きあげながら、ランチはおだやかな海面をきって、こっちのほうへ進んでくる。それはいつもの連絡船、白竜丸とはちがっていた。

 この船影をみとめたとたん、清水さんの顔からは、いっぺんに憂色が吹っとんでしまった。清水さんのひげだらけの顔に、真っ白な歯をむき出して笑うと、ギラギラと無気味にかがやく眼で耕助のほうをふりかえった。

「金田一さん、あの船がどういう船か御存じかな。あれは水上署のランチですぞ。しかも、あのランチには、磯川という古狸の警部が乗っているはずじゃ。ほら、あんたを知っているという。……金田一さん、あんた、大丈夫かな。逃げえでもええかな。いや、逃げようたって逃がしゃあせんがな。金田一さん、あんたにうしろぐらいことがあるなら、こんどこそ年貢のおさめどきですぞ。あっはっはっは!」

 清水さんはひげだらけの顔じゅうを口にして、世にもはればれと笑ったことである。(pp.182-184)

 しかし、はればれと笑った清水も、とたんに落ち着きをなくしていまう。つぎに引用するのはうえで引用した箇所の直後の文章である。元来が人のいい小心な清水と、狂気にかられた清水との対比に注目してほしい。

 警察のランチは沖に停泊する。船着き場からは迎えの舟が漕ぎ出していく。島の連中がバラバラと、物珍しげに船着き場へ集まっていく。

 清水さんと耕助は、それを見ると大急ぎで坂を下っていったが、船着き場に立って、艀を待っているあいだに清水さんはしだいに落ち着きを失ってきた。耕助があまり落ち着きはらっているからである。

「金田一さん、金田一さん」

 清水さんは無精ひげをつまぐりながら、不安そうに耕助を横眼でにらんで、

「あんたは磯川警部とどういう知り合いじゃな。あのひとがやってきても大丈夫かな」(p.184)

はればれと笑った清水がとたんに無精ひげをつまぐりはじめる。

横溝の描写の妙に感心することも可能だが、それを読み取る側としては、清水の外面的な行動の変化から彼の内面の変化をも読み取らないわけにいかない。

清水のこのような豹変ぶりのうちに僕は魔術にかかった清水の狂気をみる。

(「横溝正史『獄門島』(その6)」につづく)