新編 膝枕

智に働きたいと思いながら、なんかやってます。

■横溝正史『獄門島』(その1)

横溝正史獄門島』を読んだ。


僕が読んだのは次のテキストである。

(以下、引用はこのテキストからおこなう。)

 横溝正史獄門島』(角川文庫、1971年3月初版、1996年9月改版初版、2012年11月改版40版(*注1))

* * *

◆はじめに

僕は横溝正史獄門島』についてこのブログにいくつか記事を掲載する予定であるが、「その1」としたこの記事では、僕が使用するテキストの問題について触れておきたい。

うえで、僕が読み、一連の記事のなかで引用しようとするテキストの初版、改版、刷の年を明記したのは、このテキストに批判的校訂が必要であると思われる箇所がいくつも存在するからである。

まず、つぎの赤い太字にしたところに注目していただきたい。

もっとも、そのうちただひとつギャップはある。和尚や了沢や竹蔵の、寺を出た時刻が正確にわかっていない。ひょっとすると、それは、耕助分鬼頭への道へそれてから後だったかもしれない。と、すればそのあいだだけ、つづら折れのふもとから、寺までの道は、だれも歩いていないことになる。(p.104)

 悲劇は終わった。もうこれ以上恐ろしいことは起こらないだろう。……獄門島のひとびとは、みんなそれを知っている。そして死人には気の毒だけれど、みんほっとしたような気持ちだった。(p.284)

最初の引用箇所における「耕助か」は「耕助が」が正しいし、後の引用箇所における「みんは」は「みんな」が正しい。(*注2)

改版されてから16年で40も刷り(*注3)を重ねているのにこのような明らかな誤植があるということは、このテキストの信用を薄いものにしてしまっている。

およそあらゆる言語作品がそうだが、読み手は、その作品を読むにあたって、そこに用いられている単語の意味、単語の語形の意味に敏感にならずにはいられないし、それらをとらえる土台として音声形式に敏感にならざるをえない。そして、そうであれば、単語の音声形式を表現する重要な役割をになうかな文字も、特に「べた書き」で連続するときには、そのかな文字の連続を適切に区切って単語を分離する作業を、読み手はいささかなりともおろそかにすることはできない。

とりわけ、本作のように方言、方言的表現、個人的な癖などがあちこちに挿入されてくるような作品にあっては、読み手は単語の分離、その単語の意味の推測と特定によりいっそう慎重になる。

だからこそテキストは十分に正確なものであってほしい。

それなのにこんな簡単な誤植をされると、すごくがっかりする。

僕が他のテキストを使用すれば良いだけのことなのだが、いま現在ひろく流通していて、誰もが手軽に入手できるのがこの角川文庫版であることを考慮して、僕のこれからの一連の感想記事ではこのテキストをかりに正本として扱い、引用箇所のページの指示もこのテキストからおこなうことにする。こうすることで、僕の記事をお読みになったかたによる僕の記事への批判が、『獄門島』という言語作品そのものにあたったうえでなされるようになると思うからである。(*注4)

(「横溝正史『獄門島』(その2)」につづく)

*注1

 角川文庫の奥付では元号が用いられているが、ここでは西暦におきなおした。

 また、注3を参照のこと。

*注2

 次のテキストとつきあわせて、誤植であることを確認してある。

   横溝正史獄門島』(講談社、1977年)

   横溝正史横溝正史自選集2 獄門島』(出版芸術社、2007年)

 僕の参照したのがこの2つのテキストであるのは、近所の市立図書館が所蔵していたのがこの2つのテキストであったからである。それ以外の理由はない。

*注3

 角川文庫の奥付の記載は「改版四十版発行」。

 「改版四十刷発行」となるのが普通だと僕は思っていたが、他の角川文庫も参照して、たいていの出版社なら「刷」となるところも角川文庫では「版」としるされることを今回知った。この文中ではあえて「刷り」としるす。

*注4

 上の注2で、僕が講談社出版芸術社のテキストを参照したことを述べたが、これら2つのテキストと角川文庫版とのひとつの大きな違いは章立てにある。すなわち、角川文庫版では、プロローグに始まり、第一章、第二章、・・・第七章、エピローグと構成されているのに対して、講談社版と出版芸術社版では、角川文庫版におけるプロローグに第一章が割り当てられ、以下第二章、第三章、・・・第二十五章とつづき、角川文庫版におけるエピローグに対しては「大団円」という名前がつけられている。(角川文庫版では各章の内部に小見出しによる区切りがいくつもあるが、それらが講談社版、出版芸術社版における「章」による区切りに対応している。)

 第一章、第二章… プロローグ、エピローグ、大団円… 名づけは違うとしても、ひとつの作品における区切りとしてその位置と数はどのテキストでも「ほぼ完全に」一致しているし、それぞれの区切りにあたえられたタイトル(「金田一耕助島へいく」「ゴーゴンの三姉妹」「太閤様の御臨終」…)も「ほぼ完全に」一致している。(*注5)

 おそらくは角川文庫の編集者が独自の基準を持って、おそらくは読者にとってのとっつきやすさを考慮して、章と小見出しの階層わけをし直したのだと思われるが、著者である横溝の構想を正しく反映しているのはどの版か、という点から批判的な検討をする必要があると思う。

 なお、講談社版、出版芸術社版と角川文庫版とでは、漢字表記と平仮名表記、読点と句点の点でも、食い違いがある。一方では漢字表記だったものが、他方では平仮名にひらかれ、一方では平仮名だったものが、他方では漢字になっている。あるいは、漢字表記という点では同一でも、その漢字が別の漢字にかえられていうという箇所もある。一方では読点だったものが、他方では句点になっている箇所もある。

 漢字か平仮名かという文字の違い、読点句点の違いは実際はそれほど重要ではないが、これらのテキストのあいだで深刻なものとしてあらわれるのは、節や句の抜け落ちや付加、ある形態素の抜け落ちや付加であるし、音声形式のバリアントと解釈することも許容されるような箇所でのかな文字のちがいである。(*注6) 

 誤植の訂正が必要であるのは当然であるが、章立ての点でも、語句の抜け落ちの点でも、きちんとした校訂が必要である。

 こうした校訂の必要がとくに強く感じられるのが角川文庫版であるが、本文中で述べた理由により引用は角川文庫からおこなう。

*注5

 「ほぼ完全に」と保留をしたのは、文字通りに完全な一致が見られるのではないからである。この点については稿をあらためて「その2」でとりあげる。

*注6

 こまかなテキスト批判については稿をあらためて「その3」で具体的な異同の箇所を提示する。