新編 膝枕

智に働きたいと思いながら、なんかやってます。

■丸山眞男「昭和天皇をめぐるきれぎれの回想」(1989年)

先日、あるかたと話をして、天皇のことが話題になった。そのとき、(このことはどこかに書きとめておきたい)という以前からの思いが強くなったので、この記事をしたためることにした。

 

 

 

この記事であつかうのはつぎの一文である。

 

 

丸山眞男昭和天皇をめぐるきれぎれの回想」(『'60』、第14号、60年の会、1989年3月)

 

 

* * *

 

 

丸山眞男」(1914年3月22日 - 1996年8月15日)という人間そのものについて僕がここで述べることはない。

 

 

僕に大きな影響をあたえたもののひとつが「丸山眞男」の著作であるということは、この際だから、はっきりと明言しておきたい。

 

 

僕が丸山の著作からどんな影響を受けたのか、ということは、ここでは明言しない。

 

 

明言しないというのは、僕は丸山の著作のほとんどすべてを所有しているとはいっても、そのすべてに目をとおしたわけではないし、ましてや、目をとおした著作にかぎっても、その内容を理解したなどということは、間違ってもいえないぐらいの浅い読書しかしていないからである。

 

 

だから、正確には、明言できない、というのが、一番正直なところである。

 

 

そんな僕があえてこの記事を書くのは、「昭和天皇をめぐるきれぎれの回想」という丸山の一文こそが、僕がひとりの人間としての丸山に惚れ込むきっかけになったという自覚があるからである。(僕が丸山に惚れ込むきっかけとなったものには、E.H.ノーマンを追悼する文章もあるが、この記事ではそこまではふれない。)

 

 

この一文は『丸山眞男集 第15巻』(岩波書店、1996年)に収録されているので、ここでの引用はこの本からおこなう。

 

 

この一文についての書誌的解題については、この本の末尾に付された解題以上のことを僕が知っているわけではないから、あえてここで触れることもない。

 

 

次の一点だけをここに書きとめておく。

 

 

それは、この一文が書き始められたのは1989年1月10日すぎであり、同年1月31日に執筆を終えているということである。

 

 

(「まえがき」に「今月の十日すぎからボツボツ筆をとりはじめたが、例によって風邪症状に悩まされて中絶をくりかえした揚句、何とかまとめた。」(前掲『丸山眞男集』、p.13)とあり、文末には「(一九八九・一・三一)」(同、p.36)とある。)

 

 

* * *

 

 

まえおきはこのぐらいにしておく。

 

 

僕がここで紹介したいのは、この一文中の次の箇所である。

 

 

 さて、つぎの天皇とのかかわりは何といっても皇紀二千六百年の祝典である。同じ年の十一月にさまざまの行事が催されたが、このとき帝大に天皇の「行幸」があった。高等官には拝謁を賜うとあって、当日は父からフロックコートと山高帽を借りて出かけた。拝謁というと大げさだが、なにしろ帝国大学というのは、諸官庁のなかでもとりわけ高等官がワンサといるところである。指定された安田講堂に入って見ると、拝謁を賜う高等官で講堂はギッシリ埋まっていた。やがて時が来ると昭和天皇は海軍大元帥の軍服姿でゆっくりと壇の左手から登場し、中央で一同の方を向くと、私達の最敬礼にたいし顔をまわしながら挙手の礼をもってこたえ、右手にまたゆっくりと去って行った。「拝謁」とはただそれだけのことであった。それでもある同僚は講堂を出るなり「御立派ですね」と感慨を漏らした。この同僚ほどの感激は私にはなかったが、たしかに従容として迫らざる威厳を感じたのは事実である。すくなくも、戦後の天皇の全国巡遊で、民衆にたいし中折帽をとってバカの一つ覚えのように「あ、そう」を繰りかえす猫背の天皇をニュース映画で見たとき、これがあの安田講堂なり運動場なりでじかに見た堂々とした天皇と同一人物であるとは、私には容易に信じ難かった。白馬にまたがる大元帥の陸軍軍服姿の天皇の写真はおそらく諸君も見たことがあろう。一体、天皇はあのピンと背筋をのばした姿勢から、いつの間にあれほど猫背になってしまったのか、というのが今日まで解けぬ疑問の一つである。(前掲書、pp.31-32)

 

 

ひとりの生身の人間としての昭和天皇の外見的変化をこのようなまなざしでしるした文章を僕はほかに知らない。

 

 

ぼくは丸山のこういうまなざしに人間としての丸山眞男のやさしさをみる。

 

 

だから、ぼくはいまも丸山を敬愛している。