■映画「八日目の蝉」をみた。
映画「八日目の蝉」をDVDで視聴した。
公開2011年、147分
原作:角田光代『八日目の蝉』
僕が本作の存在を知ったのは、ブタネコ氏のブログに掲載された記事(「八日目の蝉 映画版」掲載日:2011年11月06日)によってである。
(氏の記事によって、本作の原作が「角田光代」であること、映画版に先行してTV版が存在することを知ったが、僕はいずれも未見である。)
正直なところ、いつもなら僕は本作のような作品にはまったく見向きもしない。
本作に登場する人物のようなプロフィールの持ち主を僕は毛嫌いしており、不愉快な思いをするためにわざわざ映画をみる気はないからである。
そんな僕が本作を視聴したのは、次の2つの興味・関心があったからである。
1.上記のブタネコ氏の記事で言及された「永作博美」の演技への関心。
それがいかなる場面での演技であるのか、自分でたしかめたかった。
2.子どもにむけられる親の愛情の実現形態への興味。
本作はレンタルショップでは《新作》であり、ゆえに、レンタル料金も高い。にもかかわらず、僕が《新作》としての本作をレンタルしてきたのは、このうちの「2.子どもにむけられる親の愛情の実現形態への興味」によるところがおおきい。
僕のブログとtwitterをご覧になられているかたはご存じのことと思うが、いま僕は保育園に勤務しており、0歳クラスを担当している。
この記事で僕が述べることは、仕事で日々見聞きしていることにかかわると同時に、保育園という場で仕事をしようと考えた僕の発想の土台にもかかわる。
本作の物語の展開の骨格には「不倫」と「誘拐」がある。
さらに、「中絶」「カルト宗教」も、人間の精神に影響を与え、その人のその後の人生の展開をおおきくかえるものとして、副次的に物語の展開に関与してくる。
この記事で僕が表明する感想は、それらのいずれにも直接的な関連をもたない。
僕の興味のゆくさきを端的に述べるとすれば、誘拐された「恵理菜(=薫)」は、実の母親に育てられたときと、誘拐犯に育てられたときとで、どちらが幸せであったのか、ということ。その一点である。
僕には誘拐犯に育てられたときのほうが幸せであったようにしかみえなかった。
この点についてすこし以下にのべる。
誘拐犯との日々については、本作のなかで長い尺をつかってえがかれているが、長い尺を使ったシーンの数々、エピソードの数々は、この誘拐犯がいかに大切に「恵理菜(=薫)」をそだててきたかを物語るものとして、誘拐犯の愛情深さを具体的に描写するものとして意図してつくられたものであるだろう。
制作者の意図通りに、視聴者には誘拐犯の愛情深さが伝わってくると思う。
だから、誘拐犯との日々が幸せなものであったと僕が感じるのもごく自然なことであると思う。
誘拐犯に同情することはできない、ということは強調しておきたいが、《親子の幸せな時間》という点では、これらのエピソード(とくに小豆島でのそれ)はみるものを幸せな気持ちにしてくれると思う。
誘拐犯の愛情深さが決定的なかたちで視聴者に提示されるのが、警察に逮捕されるシーンでの誘拐犯の行動である。
これは上記のブタネコ氏の記事でもとりあげられた箇所であるが、ここでは誘拐犯に「薫 先 お船乗るとこ行って並んどいて」「どうして」「ママもすぐ行くから」("02:09:56"~)、「その子はまだご飯を食べていません よろしくお願いします」("02:12:00"~)というセリフがある。
親の愛情の実現形態の最高のものがあらわれているといってもよいぐらい、これはすばらしい。
そもそも不倫・誘拐という行動には僕はまったく共感しないし、そのような行動をした人間に同情もしないということは繰り返し強調しておきたいが、この物語のこの状況を所与として、この状況での行動の選択という点だけにまとをしぼるとすれば、ここでの誘拐犯の行動は適切で、すばらしすぎる。
このような細やかな愛情をもつ人間に育てられた子どもは幸せだ、と僕は思う。
つぎに、実の母親に同情できない点をここでは3つのべる。
まず一つ目。
誘拐の日の当日。
なぜ実の母親は生後6ヶ月の娘をベッドに一人にして外出したのか。
雨降りのなか、夫を車で駅に送りに行く必要があった、などという理由では、僕は納得しない。
本作がはじまってすぐのこの時点で、実の母親にたいする僕の同情は消えた。
二つ目。
4年ぶりに手もとに戻ってきた「恵理菜」からの「星の歌を歌って」のリクエストにこたえることができないときの母親の激高ぶりにも同情できない。
この激高が幼子との大切な時間を奪われた悲しみ・憤りの強さのあらわれであることは承知の上であるが、僕としては、それが目の前に幼い子どもがいる状況での行動であることを無視することができない。
みずからの感情の高ぶりにまかせたふるまいには、僕はいっさいの同情をむけることができないのだ。
いかに悲しく、苦しいことがあったとしても、子どもを育てる人間にはその悲しみ、苦しみの具体的な行動へのあらわれをコントロールしてほしい。
僕はこのコントロール能力を子どもの保護者には求める。とうぜんのことながら、保護者ではない、職業としての保育者にたいしても僕はこのコントロール能力を求める。
僕は実の母親の激高につきあわされる「恵理菜」が気の毒でしかたがない。
三つ目。
実の両親の元に戻った「恵理菜」が家をぬけだし、交番で保護され、両親が迎えにくるシーン。
「恵理菜」は交番で自分の名前を「薫だ」といっていた。
それに対する実の母親の行動(暴言)も、それがさらに子どもを傷つけることにつながることへの配慮のかけらもない、感情の爆発になっていて、もう、その無神経さに僕は怒りを覚える。
僕には誘拐犯に同情する気がないということは再度強調しておきたいが、しかし、誘拐犯に同情する気はないということは、誘拐犯を加害者とするこの事件の被害者である実の母親の《現在の具体的な行動》への同情をひきおこすこともないのだ。
このような実の母親のもとにあって「恵理菜」は幸せであるか?
僕はこれにたいして、いっさいの妥協なしに、「幸せではない」と答える。
さて。
小さな子どもに靴下をはかせたことのある人ならすぐにわかることだが、へたくそなはかせかたをすると、子どもの足の指が靴下の内側に途中で引っかかる。ここで、靴下をはかせる人間の配慮の細かさが出てくるのだが。
保護者のその様子をみていると、靴下のなかで足の指が変な方向を向いていることに無頓着な親と、指が痛くならないように手順の一つ一つで指の位置を確かめている親とのふたとおりがある。
ジャンパーを着せるときにも、手の指が袖の途中で引っかからないように、子どもの手を自分の手で包み込んで丁寧に袖をとおす親がいる一方で、そうでない親もいる。
仕事から帰ってきて、疲れているとか、帰宅を急いでいるとか、親には親の事情があることを決して無視しているわけではないが、子どもにたいするいちいちの具体的な行動に着目するなら、そこでの心配りの浸透のしかたには大きな違いがあることに容易に気づくことができる。
どっちが子どもは幸せかなぁ。
《家庭の雰囲気》という点で、どっちが幸せな雰囲気をかもし出すかなぁ。
僕はつねにそういうことを考えざるをえない。
職業として保育に従事するものとしては、どこまでも実の親に匹敵するあるいはそれ以上の愛情深さをもって、この愛情に具体的な実現形態をあたえることにつとめたいとおもう。
これは生身の人間をどこまでも生身の人間として尊重しつづけるという僕の基本的なスタンスと密接に結びつく。
ここに僕のプライドがある。
この記事の最後に。
「恵理菜」に取材を申し込む「安藤千草」(演じたのは「小池栄子」)の《おどおど感》《せせこましさ》《無神経さ》・・・には、登場の当初からそのプロフィールへの強い興味をいだかせられた。
「千草」が「恵理菜」とおなじ「エンジェルホーム」にいたことが物語の途中であきらかにされるのだが、僕はこの構成に絶妙なるものを感じたと、正直にここに書き留めておきたい。
カルト宗教が、幼少期にそれにかかわった人間にどんな影響をおよぼすのか。
このことを丁寧に考え直す必要がある、と思った。
以上。
以上で、この記事はおわりなのだが、もう一つだけ最後に・・・
「永作博美」の演技がすばらしかった。
あの場面での複雑な感情をよくもまぁあそこまで表現できるものだ・・・
物語のいちいちのエピソードにはおぞましさを感じたが、「永作博美」のこの表情が見れたから(よし)とする。
次は私信・・・
>ブタネコ様
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