新編 膝枕

智に働きたいと思いながら、なんかやってます。

■映画「ハ ナ ミ ズ キ」をみた。

映画「ハ ナ ミ ズ キ」を劇場でみてきた。(2010年9月15日のことだ)

【管理人より:お願いと注意!】

2010年9月17日現在、本作は「大ヒット上映中」(公式サイトより)です。

この記事はストーリー紹介、および、「酷評」 的感想を含みます。本作を未見の方はつづきを読まないでください!


 出演:新 垣 結 衣

 公開2010年

  ◆映画『ハ ナ ミ ズ キ』公式サイト

 (http://www.hanamizuki-movie.com/

(注:僕はこの記事で映画のタイトルと出演者の名前をしるすにあたって、記事の見出しと本文どちらにおいても文字と文字のあいだに《半角スペース》を挿入してある。こうしたのは、インターネット検索でこの記事がヒットしないようにするため、あるいは、ヒットしにくくなるようにするためである。)

* * *

まずはじめに。。

僕がこの映画を劇場でみたのは 「新 垣 結 衣」 が目当てであった。

その感想を正直に述べると…

…ほれますよ。彼女に…

上京したばかりで大学構内を歩いているあたり(=「北見純一」とはじめて出会うあたり)とか…

とくに、「就職活動中」の彼女がポニーテールで前髪をこうして…ってあたりとか…

いや、ほんと。ほれます。

「新 垣 結 衣」。おそるべし。

* * *

さて、本題。

【管理人からのお願いと注意!】

繰り返します!

本作を未見の方はつづきを読まないでください!

本作はファンタジー的装置のない恋愛ものである。現実世界の時間の経過にほぼ合致するペースで物語が展開していく。

映画づくりの出発点において僕はこういう作品が好きだ。

(ここにいう「ファンタジー的装置」とは、たとえば、「タイムスリップ」(例:「僕の彼女はサイボーグ」)、「架空の病気」(例:「ただ、君を愛してる」)みたいなもの)

実際にホントっぽさを感じることができたか否か、そのホントっぽさは十分にホントっぽかったか否か、というのとは別であるが、ともかく、この作品の基本的な構想、物語の設定に《ファンタジー》はない。

そういう点で僕は本作がけっこう好きだ。

「そういう点で」と限定したのは、それ以外の領域に属することがらに疑問に感じることがあるからだ。

* * *

(以下、作品そのものに言及するがゆえに、すべて作中の登場人物名でしるす。)

僕の感想の結論を述べよう。

「身勝手だ」。

以上。


つぎにその理由を述べる。

物語の主人公となるのは「紗枝」と「康平」。

二人は高校生のときに知りあい、つきあい始める。高校卒業後「紗枝」の上京とともに遠距離恋愛になるが、「康平」は家庭の事情により「紗枝」に別れを告げる。その後、二人は「紆余曲折」(恋人の死、離婚など)をへて、ふるさとの地で再会する…というのが本作のストーリー。

問題なのは、その「紆余曲折」の内容である。

「康平」は別の人と結婚をしていたが離婚をし、独り身になった。「紗枝」は別の人との結婚を決心したが、その人は仕事先のイラクで死亡。。。

これは自身の不幸であるかもしれないが、他人の不幸でもあるのだ。自身の不幸はさておき、他人の不幸を「紆余曲折」の中身に織り込んで、その結果、二人の思いが実った。。というのには、僕は納得できない。

とくに「康平」。

「リツ子」から離婚を突きつけられるようなことをしたのは、康平自身だ。たとえ、経済的な事情など、康平個人の努力ではどうにもならないことが重なったにしても、妻である「リツ子」にさみしい思いをさせたのは、康平自身だ。

(その事例:友人の結婚式での「紗枝」との再会時の対応。漁協からの融資がストップするかもしれない状況下での「紗枝」との対面。そのときに「リツ子」についた嘘。)

「リツ子」にさみしい思いをさせた結果の離婚をあいだにはさんだ上でのラストシーンでの「紗枝」との再会にたいして、僕は「身勝手だ」と判断する。

もっと乱暴にいいかえるとすれば、「ふざけるな」。

* * *

ここで、この映画の公式HPにしるされた、この映画の宣伝文句をここで紹介しよう。

「10年かけた本気の愛」

この文句は公式HPのトップページ(http://www.hanamizuki-movie.com/index.html)に記載されている。(2010年9月17日現在)

僕がこの宣伝文句を知ったのは、この感想記事を書くにあたって登場人物の名前を確かめるべく公式HPを開いたときのことである。映画を見る前は僕はこの文言を知らなかった。

上述したように、ぼくはこの映画によろしくないものを感じた。

いつもなら僕は酷評的感想は明示しないのだが、今回は酷評を含めて感想をそのまましるそうと思っていた。

感想記事を書くために公式HPをみて、知ったのが、「本気の愛」という文言であった。

もう一度繰り返すと…「10年かけた本気の愛」。

なるほど、「本気の愛」ね。

上述したように、僕は主役の二人(とくに「康平」)に身勝手なものを感じたがゆえに、彼らのあいだでのやりとりに「本気の愛」などという表現をかぶせてほしくない。

* * *

では、本作において「本気の愛」に該当する描写がないのかといえば、そんなこともない。

本作において「本気の愛」という表現がふさわしいのは、つぎのふたりである。

(1) スーパーでレジうちをしている「リツ子」をくどく男(管理人注:彼の役名がわからない)

(2) 「良子」(「紗枝」の母親)の幼なじみである「遠藤」

次にその理由を述べよう。

まず、(1)の彼から。

かれは「康平」が高校を卒業して一年目の夏の時点で「リツ子」に告白して、一度ふられている。

でも、「康平」と離婚したあとの「リツ子」に何度も交際を申し込みつづけ、ついに「OK」をもらうにいたる。

(何度も交際を申し込みつづけていたことは、レジうちの「バナナ」の場面での二人の会話から読み取ることができる。)

僕は、恋が実る可能性があるとかないとかということとは無関係にひとりの女性をずっと思い続けてきたという点で、この男のほうが「本気の愛」という表現にふさわしい行動をしたと思う。

ついで、(2)の「遠藤」。

かれは「圭一」(「紗枝」の父親)をおって海外に行こうとする「良子」を空港に送り届けた。その車中で、かれは「良子」に「好きだ」ということができなかった。「良子」は「圭一」と結婚し、「紗枝」をうむ。

こんにちまで「遠藤」は「良子」と「紗枝」のことをずっと気にかけ、面倒をみてきた。(彼ら三人のやりとりが本作に明確に表現されているから、この点は僕の妄想ではありえない。)

「紗枝」がニューヨークに行っているあいだに「遠藤」は「良子」にプロポーズし、ついに結婚!

おめでとう!

彼の思いは、「10年かけた本気の愛」なんてものではない。20年以上の愛だ。

(作中の「紗枝」のことばによれば、「初恋」がみのったのだ。)

(1)と(2)の二人に共通しているのは、自分の好きな人が別の人と結婚したのちも、その人を思い続け、離婚、死別の違いはあるにしても、その人が独り身になったときに、きちんと手をさしのべているということだ。

ぼくはこういうものにこそ「本気の愛」という意義付けをあたえる。


「本気」という点について「リツ子」にも言及しておこう。

「リツ子」は「康平」が「紗枝」と遠距離恋愛をしていることを知りつつも、「康平」に恋心を抱いていた。その後も、悩みをかかえている康平のそばに「リツ子」はいあわせ、康平を励まそうとしている。

自分の好きな人が他の人のことを好きでいるにもかかわらず、だ。

「リツ子」のこんな思いこそが「本気の愛」という表現にふさわしいと思うよ、ぼくは。

「リツ子」は「康平」と結婚。幸せな生活・・・のはず。。が、経済的な事情が家庭崩壊の直接的な引き金になったとはいっても、それまでに「リツ子」は「康平」との生活でさみしい思いをしてきたのである。そうであったからこそ、彼女はあの状況下で「康平」に離婚をつきつけたのである。

僕の感想を正直に言えば、「ひどいのは康平だ」。

さいわい、「リツ子」に思いを寄せつづけてきた男がいて、「リツ子」はその男とこれから幸せになれる兆しが本作には描かれている(それが、上述した、「バナナ」のシーン。すくなくとも、心を閉ざしていたリツ子があかるい気持ちになり始めることができたのが、この場面だ。) 僕の心が揺り動かされるのは、主役の二人のやりとりではなく、むしろ、この「バナナ」の場面でのやりとりだ。


《恋愛もの》としての本作に対する感想はこのぐらいにして、次の話題にうつる。

* * *

構成について。

とくに「紗枝」が結婚しようとしていた「北見純一」の死の表現をめぐってひとつのべておく。

本作で「北見」の死が明確に言葉と映像で表現されるのは、独り身になった「康平」が一人で夕飯をたべるときのテレビニュースだ。

しかし、テレビニュースがなくても、視聴者には「北見」が死んだことはすでに理解できている。というのも、その前のシーンで、「紗枝」が、「北見」とすごした部屋の床に座り込んで、涙を流す姿がえがかれているからだ。視聴者はこの涙によって「北見」の死を十分におしはかることができる。

にもかかわらず、あんなところでテレビニュースを挿入するのは余計なお節介であり、興ざめのもとである。

北見の遺作的個展のシーンにそのまま突入したほうがよかった。

・・・というのは、本作の構成にかかわっての僕の不満のひとつ。

* * *

時代背景について。

(ただし、NYの「9.11」にはふれない)

「康平」の父親「健二郎」は、経済的理由により、自らの所有する船を手放さざるをえなくなる。そして、自分の船をつかっての最後の漁のときに倒れ、死亡・・・

「健二郎」は、自分の息子が漁師になるのをうれしく思いつつも、当初は反対していた。なぜなら、「健二郎」自身が経済的事情の見通しの悪さ(その背景にある漁業の先行きの悪さ)を十分に自覚していたからだ。

(このことは、最後の漁での船上での「健二郎」と「康平」の会話などからとくに明確に読み取ることができる。)

自分がこれまで従事してきた仕事をつづけることができないことのさみしさについては、本作をみる人間は十分に意識しておく必要があると思う。

「康平」が「紗枝」に別れをつげたり、「康平」と「リツ子」の仲が決定的にわるくなったりするのにも、この事情がかかわってくるのだから、なおさらだ。

自分の夢をおうことをゆるさない状況があり、そうした状況に身をおく人間がいるということは、明確に意識しておく必要があるだろう。

「康平」の願うのが「紗枝」が自分の夢を実現することだけである、ということのせつなさも、「康平」の家庭の状況を考え合わせることによって、はっきりと浮かび上がってくるはずだ。

・・・この点を考慮すれば、本心では「紗枝」を思い続けてきた「康平」の行動を同情的にみることができなくはないのだが、「リツ子」の気持ちをおもうと、僕は「康平」には同情することはできない。

* * *

「灯台」と「船の模型」は「紗枝」と「康平」の関係が展開するにあたって重要な材料になっている。だから、これらにも言及した方がよいかもしれないが、突っ込みどころがいくつかあり、それを明示すると自分自身が興ざめなので、本作公開中の今の段階ではこの点にはふれない。あるいは、今後もいっさいふれない。


本作をけなしつつも、一方で、僕は本作には(いいなぁ)と感じたところもあるわけで。

中学生、高校生なら、本作をみて、いっさいの但し書きなしに感動するだろうな、とおもった。

今回の感想はこんなところで終了。