新編 膝枕

智に働きたいと思いながら、なんかやってます。

■映画「神童」をみた。

映画「神童」のDVDをみた。


映画 「神童」

 主演:成海璃子

 2007年 120分

* * *

先月このブログの記事にしたが、僕は映画「シーサイドモーテル」を渋谷の劇場でみた。

シーサイドモーテル」で一番僕の印象に残ったのは「成海璃子」さん。僕は彼女の表情にものすごくひきつけられた。

おととい(7月22日)のことだが、目的もなく立ちよったブックオフで見かけたのが、『神童』というタイトルの文庫本。

僕は「神童」という映像作品の存在は知っていた(内容、出演者についてはまったく知らなかった)。

ふと、その文庫本を手にとってみたら、表紙には映画の出演者らしき男女の写真。

誰だろう?と思ってその本の別の場所を見たら、「成海璃子」という名前がしるされていた。

ピアノが作品の中心におかれている映画で、「成海璃子」さんが出演しているとなったら、僕にとっても視聴する優先順位は高くなる。

で、昨日(7月23日)、旧作レンタル100円の機会を利用して、本作を借りてきた。

さっそく本日(7月24日)、本作を視聴した。

* * *

第1楽章の演奏がはじまったホールに途中で入場できてしまうのはなぜか、といったたぐいの突っ込みは脇に置く。(ドアマンらしき姿がむこうにチラッと見えた。きっと特別に入れてもらったんだね)

オケのメンバーが客の入ったホールのステージで練習的に音を出しているのはあり得ないんじゃない? という突っ込みも脇に置く。

「うた」は結局暗譜でコンチェルトを弾ききったとはいえ、はじめは譜面をみるつもりだった。なのに、譜めくりの人が登場する気配をこれっぽっちもみせなかったのはなぜか、という突っ込みも脇に置く。

突っ込みどころはいくつもあるが、それらをこえて、ぼくは(いい作品を見たなぁ)と思った。

《音楽神童》らしさに関してのあからさまな描写は本作にはほとんど存在しない。

「うた」が神童であるゆえんの描写はきわめて間接的である。

リヒテンシュタインという大ピアニストが彼女の演奏、およびピアノの選択眼に目を見張る。

あるいは、音大の階段脇に置かれた古いピアノをひく彼女の周囲に人が集まってくる。

…彼女のすごさのあらわれであると解釈することのできるシーンはほかにもあげることができるかもしれないが、神童を神童としてえがきだすものとしては、全然それっぽくない。

制作陣にとっての眼目は《音楽神童》の描出にあったのではないようだ。

* * *

「うた」に好意をよせながら、ただ彼女の近くにいることしかできない、あの中学男子。名前を「池山」くん。

「ピアノのお墓」まで「うた」に付き添い、「ピアノのお墓」に「うた」が進入するのを助けた池山くんは「ピアノのお墓」の倉庫の外でうずくまる。

あのあたりの、どうしようもない池山くんの気持ちに僕は共感せざるをえない。

図書室で《耳の病気》の項目を読んでいる「うた」の近くに寄りたくて、彼女のすわりこんでいる場所のちかくの棚にもどす本の山をえらんでいる図書委員の池山くん。

剣道部の男に告白されている「うた」のことをのぞきみし、「うた」が下校しようとしているところにちょっかいをだす池山くん。

彷徨しはじめた「うた」が車道に踏み出してしまいそうになるのを制止するのも、池山くんだ。きっと「うた」のあとをつけていたんだろうね。

池山くん、中学男子。けっこういい奴だ。

…というのは周辺的感想だから、これもひとまず脇に置く。

* * *

さて、「成海璃子」が演じたのは、《神童》である「成瀬うた」。

「うた」は、自分が持ってしまった才能ゆえに、体育は見学。特別あつかいされるのが当然の集団の中にあって、「うた」は自分のあるべき位置を見いだせない。しかも周囲からはからかいの対象になる。

ボールを片手でつかみ、投げつける。そこで「うた」がみせるのはピアニストとしての彼女の指の強さ。その一方で、彼女の自分の立ち位置に対する不満、不安、憤りがうずまいている。

「不満…」と一応表現してみたが、ああいうのは、そもそも言葉で表現できるような感情ではない。

ぴったりとあてはまる言葉にならない、このどうしようもない感情を表現するにあたって、映像作品はものすごい力を発揮する。

本作を見てそう思った。

そして、そうした感情を表情で表現してしまう「成海璃子」。ぼくは彼女に魅了された。

* * *

さてさて。

本作は音楽、とりわけピアノ演奏にたけた神童が登場するわけであるが、人がうらやむような才能を持って生まれてきた人間が、なにからなにまで幸せな時間でみたされて生活しているわけでもない。

「うた」が「和音」の家に来ているところに彼女の母親が迎えに来るシーンがあるが、彼女の母親は、およそ社会人としての大人ならして当然であろう挨拶を「和音」の母親にしない。いちおう娘がお世話になったのだから、帰るときにはお礼の挨拶ぐらいしなさいと説教したくなるような母親である。でも、そんな母親も、娘のことを思っていることに違いはない。母親のいうことなすことが「うた」に嫌な思いをさせているか否かは別の問題として、母親としては、まぁ、娘のことを思っていることに違いはない。

「うた」の父親もすぐれたピアニストだったらしいが、「うた」も「父親」も耳の聞こえに不安を抱えているという点で共通のようだ。「うた」自身の解釈では「父親」の死因は自殺となっている。

このあたりの表現はきわめて抽象的で、象徴的な示唆に富んでいるがゆえに解釈が恣意的なものにならざるをえないので明言は避けるが、「蝉の声」がよりはっきりときこえるようになった時点で、彼女は自分の音楽家としての生命を終わらせるつもりであったようにも見える。(すくなくとも「和音」が危惧していたのはそこだろう。)

そんな「うた」が「ピアノのお墓」で「和音」と一緒にピアノを弾くときの幸せそうな表情を見て、(幸せになれて本当によかった)と僕は思った。

才能に恵まれたがゆえに、ピアノを弾く理由になやみ、彼女の日常はけっして幸せとはいえないようなものであったが、最後のシーンでは、彼女にあたえられたピアニストとしての才能があんなにも幸せな表情ととも発揮されるにいたった。あのシーンを見て、僕はとてもうれしくなった。

ぼくは音楽が好きなので、ここでは音楽家にまとをしぼるが、すばらしい才能によって幸せな時間を過ごさせてもらったら、僕はとくにその人には幸せな時間だけが訪れてほしいと思う。

音楽家にかぎらないが、その人のそれまでの生活のすべてがよいものであったと思えるものであってほしいと思う。

最後のシーンで、あれほどの幸せそうな表情をみせてくれた「成海璃子」には感謝したいと思う。

* * *

さてさてさて。

本作ではクラシック音楽が要所要所で挿入されるが、耳の聞こえに異変を感じつつある中で「うた」がオケと演奏するのが、モーツァルト:ピアノ協奏曲第20番ニ短調K466。

僕の大好きな曲でもある。

この演奏そのものに満足したか否かは別にして、音楽っていいなぁ、とおもった。

が、本作のサントラについては不満がないわけではない。

とくに、最後のシーン。

「ピアノのお墓」を「うた」が歩くところではBGMは不要だ。

* * *

あと、ごくごく私的な思いであるが、楽曲のアナリーゼができたら、音楽の聴き方がものすごくかわるだろうなぁ。このばあい、かわるというのは、たのしくなる、という意味である。理論的にくわしくなれば、きっと音楽がもっと楽しくなる。

そうおもったのは、作中に流れた楽曲の各声部が、しだいに聞き分けられるようになってきた自分に気づいたからである。


最後に。

僕は今後「成海璃子」さんの出演作をすこしずつ視聴していこうと思う。