新編 膝枕

智に働きたいと思いながら、なんかやってます。

■TVドラマ「雨と夢のあとに」(その6)~すこし長めの感想~

(その5)の記事を掲載してから今日までのあいだに本作の再見をしたわけではない。しかし、本作に関してどうしても頭から離れないことがあるので、それをここに記録しておくことにした。

【注意!とお願い】

この記事にはネタバレ的記述が充満しています。本作を未見の方には、この点をご理解のうえでこの先をお読みになることをおすすめいたします。



〔はじめに〕

TVドラマ「雨と夢のあとに」について、僕はすこし長めの感想文を先月中にしたためておいた。

(ファイルの日付をみると、その感想文の最終編集日は4月23日(金)だ。)

僕は本作については突き詰めた内容の感想文作成を企図していたので、その時点では原稿を記事としてブログに掲載することはしなかった。(残っていた感想文中には書きかけの段落もある。)

おりをみて追補しようと思っていたのだが、月がかわった今では、先月したためた原稿を詳細な感想文へとまとめ上げる余裕がない。

また、詳細な感想文を作成するには、本作を再視聴する必要もあるようにおもう。

本作を再視聴したいという願望は強く持っているが、今はその余裕もない。

そこで、残してあった原稿に若干の手をくわえて、現時点での感想文を公開することにした。

===より下の文章が、4月23日(金)に最終の更新をしたまま放置していた原稿に、5月11日に若干の手をくわえたものである。構成は4月23日時点のものを維持してある。

不完全な内容であることは十分に自覚しているつもりである。今後本作を再視聴したときに、必要な修正を加えたいと思う。

(以上、5月11日(火)しるす)


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前回本作を視聴したのは3月の下旬である。それから一ヶ月経過した今になって本作の感想をしるすのは、無性に感想をしるしたくなったからである。

だって、このドラマがとにかくいいんだもん。(黒川智花がかわいい)(彼女を自分の娘にしたい)などと思ったということは正直にここに記録しておくが、そういう思いをぬきにして、とにかく、本作はいい。名作だと思う。

黒川智花がかわいいから、このドラマをじっくりと見てしまった、ということも決して否定はできないが、名作であるからこそ、このドラマに登場した黒川智花におおきな魅力を感じたともいえる。このドラマの着想・構成自体がよいとおもう。物語がすすめばすすむほど、僕はこの作品に引きつけられていったのだ。

今回の僕は一ヶ月前に視聴したときの記憶をもとにこの感想をしるすので、記憶違いに起因する的外れな記述がところどころに生じるかもしれないが、それは今後再見したときに訂正したいと思う。

* * *

本作は幽霊の存在が物語の展開上の重要な要素となっている。

「生きている人間と幽霊との生活を描く」という点で、本作はきわめてファンタジー的で、フィクション性の強い作品となっている。本作に与えられた設定は、ともすると、きわめてばからしいという評価をあたえられてもしかたがないとも思える。

(1)生きている人間のうち、幽霊の姿を見ることができるのは、その幽霊と心がつながっている人間だけである。

(2)生きている人間は、幽霊にふれられると生命力がうばわれる。

生きている人間と幽霊とのあいだにはこんな関係が設定されており、前半ではここから(とくに設定(1)から)登場人物たちのあいだにいろんなトダバタ劇が展開される。

でも、この作品は単なるドタバタ劇で終わっていない。

* * *

(1)の設定を幽霊の立場からいいかえると、幽霊にとって、自分の姿を見、自分の声を聞くことができるか否か、ということが、その人間が自分と心がつながっていることを示すひとつの指標になる。

「真昼」、そして「霧子」は朝晴の姿を見ることができなかった。まぁ、朝晴と心がつながっていなかったということだ。

この設定を元にした物語の展開にはつじつまの合わない不思議な点はあるのだが、それはどうでもよいぐらい他の面がすばらしい。

自分の姿を見ることができると思っていた人間に、自分が見えない。その反対に、自分の姿を見ることができるわけがないと思っていた人間に、自分の姿が見えたりする。

たとえば、後者の例。

高校生のときに実家を飛び出した朝晴が、31歳になって実家にかえる。自分が実は死んでいるということを伝え、雨の今後のことを両親によろしく頼むためだ。朝晴は父親には自分の姿が見えるわけがないとおもっていた。でも、父親には何の苦もなく朝晴の姿を見ることができているんだ。このおどろき。

火事で家族みんなが死んでしまったのに、父親だけが生き残ってしまった。そんな家族を朝晴は自分の家に引き取ってしまう。何気ない行動だけれど、生き残った父親には、死んでしまった家族全員の姿が見えるんだね。家族で心がつながっているからだ、といえばそれまでなのだが、そうではない家族(親子)もドラマのなかに登場する。そこから幽霊にとっての寂しさが生じてくる。

で、このドラマで興味深いのは、桜井雨、朝晴のふたり、そして早川家はみんなとにかくいい人に描かれているということ。

というのは、小柳暁子は死後長い間一人きりで生活していた。そんな小柳暁子にとって、死後はじめて会話ができたのが桜井雨なのだ。

別に、心がつながっているとかいないとか、ということではなく、とにかく素直で心優しい女の子であるからこそ、桜井雨が、小柳暁子とはじめて会話ができた人間になれたんだろうなぁ、と僕は思う。

で、この設定(1)によって生まれる感動が最終回、それまで幽霊である朝晴の姿を見ることも、その声をきくこともできなかった霧子と真昼に朝晴の姿が見えるようになる。それによってかれらは最後の別れができるようになるんだよね。これが僕にはすごく切ないんだよな。

そして、最後の遊園地。小柳暁子が朝晴に不思議な力を注入したようにも見えるが、とにもかくにも、あの場で朝晴の姿が月江にも見えるようになる。このとき、朝晴と月江のあいだになされるやりとり。

(朝晴)「死ぬ前も、死んだあとも、自分は雨とずっと一緒に生活してきた」

(月江)「私を雨の母親とみとめてくれるの?」

(朝晴)「ああ」

本作では月江はどうしようもなく無神経な人間のように描かれる。

(すくなくとも、今の僕は、本作における月江の一連の行動にたいしては「無神経だ」と意義づけをあたえる)。

でも、そんな月江にも、やっぱり雨は自分の娘なんだよね。雨が朝晴のところに戻ってしまったあと、月江は気が狂ったように、人形にむかって「雨」と話しかけ、おしゃれをさせ、口紅をぬる。自業自得であると切り捨ててしまいたいところだが、しかし、一方で、月江には月江なりに、自分の願望とそれが果たされない現実との狭間での苦しみがあるのだ。(この個別的な事例には僕はあまり同情はしないけれども)

そんな月江にも最後に救いがあたえられる。それが、上に紹介した最後の遊園地での朝晴と月江とのやりとりである。

ここで、月江は「自分が雨の母親である」ということを朝晴から明確に言葉で認めてもらうことができた。

僕は月江には同情しない。このことははっきりとここで明言しておくが、そうではあっても、最後にこのようなかたちで彼女に救いがあたえられたことが、僕にはうれしいものであった。

* * *

悲しくなってしまうのが設定(2)。

幽霊は生きている人間にふれるとその生命力を奪ってしまうという。

それを知った朝晴はもう雨の近くにいることはできない。だって、大事な雨から生命力を奪ってしまうわけにいかないからだ。

そうだからこそ、雨に指切りをせがまれてもそれに応じることができない。

そして、自分が幽霊であることを雨に知られたら、もう雨の近くにはいられない。

朝晴も雨もそのことを知っているからこそ、この話題を口にするのを遅らせよう、遅らせようとしてしまう。

それがまたふたりのあいだに大きな障害を生んでしまい、最終回における物語の展開をダイナミックなものにしていく。いつまでも一緒にいたい、というふたりの思いを大事にしていたから、そうなってしまったんだ。

言葉にしなければ、思いは伝わらない。それは正しいと思う。

でも、言葉にしなくても伝わる思いというのはやはりあるのであり、言葉にしなくても思いを伝えあうことのできてしまう人間関係はやはり存在するのだ。

朝晴を遊園地に送り届けた岳男と朝晴とのやりとりも、僕には切なくてしかたがない。

岳男はこれが朝晴と最後の別れになることがわかっている。にもかかわらず、「俺はここで待つ」といって、朝晴を見送ろうとする。

朝晴はそんなことすべてわかった上で、やっぱり岳男には今までお世話になったお礼を言いたい。そして、今後の雨のこともよろしく頼みたい。で、それを言葉にしないわけにはいかない。言葉にしなくてもわかっている。けど、言葉にしてきちんと伝えたい。その思いのこもったやりとりが、朝晴と岳男ふたりのあいだに静かに繰り広げられる。

切ないよね。

それは観覧車にむかう雨と朝晴、北斗のあいだのやりとりにもみられる。

けっして押しつけがましいことはいわない。

だって、今後どうなるか、もうわかってるんだから。そして、それはもう誰にもどうすることもできないんだから。

いい人たちだなぁ。

幽霊になった朝晴が雨と暮らした最後の二ヶ月のあいだに、期せずして、雨は自分の本当の母親と父親と出会うことができ、小柳暁子とともに「本当の家族みたい」な生活をすることができた。長野の祖父と祖母とのつながりが増し、早川家ともよりいっそう親密になった。

朝晴が消えても、もう雨は十分幸せに暮らしていくことができる。朝晴はそんな人間関係をととのえてから成仏していったのだ。

髪を短くした雨が、リンゴ畑で祖父祖母と一緒に農作業をする。そこに北斗がやってくる。朝晴の部屋に雨が寝転んで、朝晴に話しかける。

あの雨が実にかわいらしく、いとおしい。

幸福な、あたたかい生活の環境を雨にあたえてから消えていった朝晴…いいヤツだなぁ。

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繰り返しになるが、以上は4月23日時点での感想文である。

公開するにあたって整序の作業をしている最中にも、あらためて本作の映像が頭のなかによみがえってきた。すでに今の時点でも、追加して書き込みたいことがある。

追加的感想文を作成したいという願望はもっているが、そのために本作の映像を頭のなかにくわしく映し直し始めると、また僕はほかのことに手がつかなくなりかねない。

本当をいうと、本作のDVDを何度も何度も視聴したい。一気見したい。

が、しばらくはそれを我慢することにしたい。

残してあった原稿を公開したのは、とりあえずではあっても本作についての感想文作成にひとつの区切りをつけるためである。

が。

でも、やっぱり再見したいなぁ・・・