新編 膝枕

智に働きたいと思いながら、なんかやってます。

■映画「バースデー・ウェディング」(その10)~夫婦間の思いやり、そして、紀美子が海を選んだ理由、その結果~

【※本稿は 《作品分析》 の試案です。この点をふまえて先をお読みいただければ幸いです。】

本稿(その10)でおもにあつかうのは、《思い出の海岸》での紀美子と通也の会話である。ここには、夫婦の機微、とくに通也から紀美子への思いやりがヒシヒシと感じられる。


* * *



紀美子と通也ふたりの会話のなかに、紀美子の余命についてあからさまに語る言葉はほとんどない。

私の個人的印象に属するが、通也と紀美子のやりとりをみていると、「思い出の海岸」への行き帰りの時点では、通也は医者から告知された紀美子の余命を紀美子に明確に教えていないのではないか、と思えて仕方がない。

(その日の夜、ビデオレター作成に着手するにあたって夫婦の間で紀美子の余命について明確な話し合いがあったことは容易に推察することはできる。しかし、本作の夫婦の描き方からすると、この日より前にふたりのあいだでこの件が話題にのぼったことがある、とは考えにくい。)

ここでは、紀美子は自分の余命について明確に教えられていないと想定しよう(その反対を想定したとしても、下に記すことを変更する必要はないと私は考えている)。

ところで、紀美子の口から出てくるのは、自分の命が春までもたないことを前提とした言葉である。では、通也は、そんな紀美子の言葉を否定するかといえば、そんなことはない。

ひとつだけ、「おれは、まだ…」といいかける。しかし、通也の言葉の意味を察知した紀美子はすぐに桜貝の話題を切り出し、もう十分幸せ、という意味のことを通也に伝える。それをだまって受け止める通也。

先のないことを自覚している人間に、決して無責任なことを言わない。

通也は帰りの坂道でも「(ランドセル姿の千晴を)見たかったなぁ」という紀美子にだまって寄り添う。それに続くのは、(通也)「かえろう」、(紀美子)「うん」のやりとりのみ。

この意味、ここでの夫婦の機微、ふたりのあいだにある思いやりを、感じ取っていただけるだろうか。

今の生活がもう長く続かないこと、しばらく後に不可避的に訪れる自分たちの生活の変化を所与として受け止めているのだ。

紀美子の余命が短いから悲しいとか、そんな単純な感情ではない(「悲しい」というのがその一部に含まれているとしても、これひとつだけですべてが満たされているとかんがえるのは、あまりにも単純だ)。一方で、紀美子が自らの余命の短さを受け入れたから強い、というわけでもない。


(余命の短い人間が登場する作品において、死を受け止める人間に《強さ》を演じさせて感動を誘うようなものがあるが、それは私は嘘っぱちだと思っている。そもそもその状況にある人間を《強さ・弱さ》のカテゴリーでとらえようとすること自体が、周囲の人間の無神経さの表れだと私は思っている。――これは、あまりにも作品本体からはなれた私の個人感の吐露となるがゆえにカッコにいれてしるしたが、本当はもっとはっきりしたことを書きたいところ。書いたことは書いたが、さすがに、今の時点の私には公開にふみきれるような穏やかな内容ではない。)


夫婦のあいだでも、紀美子のいる生活が続くことに希望を持たせるようなことはいわない。だって、紀美子がまもなく死ぬっていうのはどうしようもない現実でしょ。医者にもどうすることもできない、通也にもどうすることもできない、ましてや死ぬ当事者である紀美子にもどうすることもできない。その現実に対して、机上の空論的な無責任なことをいわない。

そんな夫婦のやりとりがあるなかで、ただひとつ、どうしてもおさえきれない紀美子の願望が「見たかったなぁ」というセリフで言葉すくなく挿入されるだけだ。


バスの中で千晴に靴を履かせようとして紀美子が言う。

 「足、おおきくなった?」

老夫婦の連れてきた犬と遊ぶ千晴を見ていう。

 「子どもの成長って、ホント早い。」
 「洋服、たくさん買っとかなきゃ。」

紀美子と通也に見守られる中、浜でただ無邪気に遊ぶ千晴。誕生日祝いを計画し、紀美子の次の誕生日のことを語る5歳の千晴。

千晴は確実に成長している。そしてまもなく小学校に入学する。でも、三人での生活がもう続かないことはだれにもとめられない。すべては所与の現実だ。

本作は、そうした現実の中で人間のいだく感情を、安易な言葉では一切語らない。そこに私はこの作品の偉大さを感じる。本作を名作だと評価するゆえんだ。



さて、うえで、わたしは、紀美子は自らの余命を医者からも、通也からも教えてもらっていないと想定した。

医者から余命告知を受ける場所にいるのが通也だけであること(《回想2(B)》)は本編から知ることができる。それだけをもって、医者からの余命告知を紀美子は知らないと判断することはできないのは確かだが、しかし、二人のやりとりを何度見ても、その後の通也は紀美子にそれを伝えていないとしか思えないのだ(それに、編集の点からいっても、そうした読み取りを本作は期待しているように思われる)。

私の想定とは反対に、通也は紀美子に明確な余命を伝えていたと考えたとしても、うえにのべた二人のやりとりに見られる思いやり、夫婦の機微はすこしもゆるぐことなく、作品にみごとにうまく表現されていることには変わりはない。


* * *



最後に。

さらにつづいて、紀美子が5歳の千晴を連れて海に行った背景をとりあげてみよう。

紀美子が通也とともに海に行ったことは何度もある。しかし、冬に海に行くのは初めてである。すくなくとも千晴をともなって冬に海に行くのは初めてだ。((紀美子)「冬にくるの、はじめてね。」(DVD本編“05:07”))

冬のあの時期に家族3人で出かける場所として海を選んだのは、紀美子の主導によるとかんがえられる。そう読み取る根拠は次の箇所にある。

紀美子の言葉のはしばしに、自分の余命が短いことを自覚していることが感じられる。それを感じた通也は、「また、こよう。千晴と3人で。また、ここへ。おれは、まだ…」という。しかし、紀美子は通也が言いたいことも感じ取っている。そこで、紀美子が通也の言葉を制止させて、話題に出すのが桜貝。

ポケットから桜貝の小瓶を出して「ね、これ、おぼえてる?」と話題をきりかえる。それをうけて通也が「だから、ここに?」という。紀美子はそれには正面から答えず、「ふふ。ねぇ、カメラ貸して」…といって、桜貝の小瓶をビデオカメラにとりつける…


なぜ、紀美子はわざわざ桜貝の小瓶をもってきたのか。

もはや、ここから先は私の妄想でしかかたることができない世界に入る。

しかし、「そそっかしい」紀美子が桜貝の小瓶をわすれずに持ってきたことの意味は大きいと思う。

このあたりのシーンは、夫婦の機微によってかたらせる部分がおおく、直接的な言葉があまりにも少ない。ゆえに、役者の演技から感じとる以外に、紀美子と通也ふたりの感情の動きをとらえることはほとんど不可能だ。が、紀美子は桜貝をぶら下げたビデオカメラに写るものをさして、(もう十分幸せ)といいたいのだ。

そして、意図しなかった千晴からの誕生日祝い、そして誕生日プレゼントの桜貝。

紀美子の当初の意図を超えた幸せが、千晴の行動によって目に見える形態で具現した…

これが海に行ったことの偶然の産物であるとしても、5歳の千晴の行動によって十分すぎるほどの幸せが実現した…

十分すぎるほどに幸せだけれど…ランドセルを背負った千晴の姿を見ることはできない…「見たかったなぁ」…

この現実の意味、この切なさを感じ取っていただけるだろうか?

(この稿、未完)


※お断り
本稿は完結していませんが、いまのところ、つづける予定もありません。あしからず、ご了承ください。