新編 膝枕

智に働きたいと思いながら、なんかやってます。

■映画「バースデー・ウェディング」(その9)~セリフなしの感情表現(2) -- 母娘の類似性に対する思い~

【※本稿は 《作品分析》 の試案です。この点をふまえて先をお読みいただければ幸いです。】

本稿(その9)であつかうのは、(その8)であつかった「感情をかたる言葉がなくても感情は表現される」事例の紹介の続きであるが、(その8)とは若干その内容は異なる。(その9)でおこなうのは、言葉にならない思いを言葉で表現しようとしない事例の紹介である。

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《言葉にならない思い》というのは、定義上、そもそも言葉にならないものなのだから、それを言葉で表現しようとこころみること自体がばかげている。しかし、往々にして、《言葉にならない思い》を言葉で語ろうとして、嘘っぽさ、薄っぺらさを感じさせる映像作品があることを思うと、このあたりまえのことをあたりまえにこなす本作の問題の箇所を紹介しておくのも無駄ではないだろうと私は考えている。


まずお断りしておきたいのだが、本稿(その9)の記述内容は、《見聞きできる現実から一本道に感情がよみとれる》といった類の感情表現に言及するものとはことなり、視聴者の過去の経験、生活上の体験的な実感に寄りかからざるをえないものとなっている。したがって、ここに記した私の解釈に読者の方が反論しようにも十分な根拠をもってそれをおこなうことがむずかしければ、その反論に私が反論するために十分な根拠を持ち出すこともむずかしい。したがって、議論をすることがそもそも不可能だ。そんな性格の記述になっている。

ここまで書き継いできた本作関連の記事は《作品分析》の一つの試案として作成したものだが、私は一連の記述の中でいちいちの解釈を提出する場合に、作中に明確に表現されたものに根拠を求めるように努めたつもりである。そうすることによってしか《作品分析》は説得力あるものにならないと考えるからである。そうした私の試みが成功しているか否かは――ありきたりな断り文句になるが――やはり読者の皆様の批判を仰ぐことによってしか、決定することはできない。読者の皆様が批判しやすくなるように、私の思考のプロセスをできるだけ明示的に記したつもりである。

が、本稿(その9)は、これまでと同じような仕方で記すことができない。あくまで、私はそう感じた、というレベルでしか記すことができない。ゆえに、議論もしにくい。その点をまずお断りしておきたいと思う。もちろん、私が以下に記すことに異論をもつ方はいらっしゃるだろう。その異論を私にお寄せいただければ、私はうれしい。いただいた異論に根拠ある仕方で同意をすることも反論をすることもできない可能性は高いのだが、ほかの人はどう感じるのか、ということに私は興味を抱くからである。

「異論をお寄せください」というお願いはこれまた私の勝手な思いにすぎないが、読者の皆様には、以上のことをお考えにいれて、下の記述をお読みいただければ、私としては幸いである。


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さて、本稿(その9)で注目するのは、通也の「そそっかしいなぁ」というセリフであり、それにともなう通也の行動である。このセリフは本作では2箇所にあらわれる。

ひとつは、思い出の海岸にむかうときのこと。

バスを降りた紀美子がバッグを一つバスの中に置き忘れたと思い込んだ。しかし、実際にはそのバッグは紀美子が千晴に渡してあり、千晴はしっかりとそのバッグをもってバスから降りていた。そんな紀美子に対して通也がいうセリフ。

「ふふ。おまえはほんと、そそっかしいなぁ。」(DVD本編“04:19”)

(バスの中で紀美子のズボンにクリーニングのタグがつきっぱなしになっていたのも、紀美子の《そそっかしさ》をあらわすものだろう。バスの中では「そそっかしい」という単語は使用されていないが、それをみた通也の「でも、これで何度目だ。」(DVD本編“02:28”)というセリフが、類似の行動が何度も繰り返されていることをしめしている。)


もうひとつは、千晴の結婚式の前日。

指輪がないことに気づいてあわてた千晴に指輪を渡しながらいうセリフ。

「おまえは、ほんと、そそっかしいな。はい。」(DVD本編“28:02”)

この「そそっかしいなぁ」の言葉のあとに、通也は「ちょっと出かけてくる」といって、千晴の制止を振り切って飲み屋に出かけてしまう。


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以下に述べることは、私の個人感の表白にとどまらざるをえないのだが、結婚式前日に自らの発した「そそっかしいな」というセリフによって、通也は千晴の今後が心配だなどと感じたわけではないだろう。通也は今後のことが心配になるような仕方で千晴を育てたりはしていない。母と娘の類似性が紀美子をめぐる思い出とむすびついた、と考えるのが自然だとおもうが、その内容は、ありきたりの言葉で表現することのできない、もっと漠然とした思いだ。具体的な内容にみたされることのない、漠然とした寂しさだ。(ここで「さみしさ」という単語をもちいたが、この単語でもとらえきれないような思いではないかと思う)

通也のこの思いを感じ取っていただけるだろうか。

私がこの作品が名作だと評価を下すのは、そういう微妙な人間の感情をいっさい言葉で表現しようとしないからだ。

言葉で表現できないものは、まさに、言葉で表現できないものとして、その思いをいだいたときの人間の、そとにあらわれた行動だけによってえがきだす。

そこに、この作品の偉大さを感じる。

(この稿、つづく)