新編 膝枕

智に働きたいと思いながら、なんかやってます。

■映画「バースデー・ウェディング」(その8)~セリフなしの感情表現(1) -- ビデオ撮影の中断~

【※本稿は 《作品分析》 の試案です。この点をふまえて先をお読みいただければ幸いです。】

本稿(その8)でとりあげるのは、「セリフがなくても感情は表現される」という事例の一つである。


* * *



私は、本稿(その3)の末尾で、ビデオレターが「パパもどこか痛いの?」という千晴(5歳)のセリフの直後に突然終了するという事実をとりあげ、この事実を、通也が撮影を続行することができないほどの感情の高まりにおそわれたことの結果であり、そこに通也の感情が表現されていると私は理解した。

本稿(その3)でビデオレターのこの箇所をとりあげたのは、作品本編から得られる情報だけでも、十分にこの作品のすばらしさを伝えることは可能だ、ということをいいたかったからである。

これを別の言葉でいいかえれば、「感情をかたる言葉がなくても感情は表現される」事例のひとつをビデオレターのこの箇所に私が見いだしたということにほかならない。


さて、撮影者である通也が、ビデオの撮影を続けることができないほど強い感情におそわれたと解釈することのできる箇所がこの作品にはもうひとつある。

それは、《思い出の海岸》で紀美子に抱かれた千晴(5歳)のセリフの途中でのこと。

この箇所の千晴のセリフはすでに本稿の「(その6)~33本のろうそく~」でとりあげたが、そこで引用したセリフのあとにもさらに千晴のセリフはつづいている。作品本編からはこのときの千晴のセリフの中間部分を聞き取ることができないため、すべてを再現することはできないのだが、終わりの部分は明確に文字化することができる。千晴の一連のセリフのうち、確実に書き起こすことのできる箇所だけを記すと、つぎのようになる。

千晴「つぎのお誕生日はもっとおーきなケーキをつくってあげるね。それでね。ママをもっと驚かせてあげる。それでね。たくさん、たーくさん、またビデオとるの。つぎの誕生日はね。もっとすごいプレゼントするね。今度はね、おおきいのにするね。
  (…略…)
今度のお誕生日はパパに手伝わせてあげない。千晴が自分でやるの。パパも驚かせるの。」

「今度のお誕生日はパパに手伝わせてあげない。千晴が自分でやるの。パパも驚かせるの。」の箇所で撮影が中断しているのだが、まさにそこが中断箇所であることを示す根拠が本編にはふたつ――直接的なものと間接的なもの――あたえられている。

ひとつは直接的なものである。

通也の礼服の内ポケットにテープを発見した千晴が、それをはじめて再生したとき、テレビ画面に真っ先に映し出されるのが、「今度のお誕生日はパパに手伝わせてあげない。千晴が自分でやるの。パパも驚かせるの。」の部分である。ここで紀美子に抱かれた5歳の千晴の姿と声が再生されるのだが、この短いカットが再生された直後に画面が《ザー》となる。そのしばらくあとに、紀美子の姿がテレビ画面に映し出され、紀美子のビデオレターが始まる。


そして、もうひとつ。これは間接的なものだが、結婚式でスクリーンに映し出されたビデオ映像が手がかりになる。

スクリーンのなかのビデオ映像で千晴(5歳)が紀美子の腕の中で上記のセリフをいう。それと時間的に重なり合うかたちで千晴(21歳)のスピーチも進行するわけだが、それまで、千晴(21歳)のスピーチの背後で聞こえてきたビデオの音声がそこから先は聞こえなくなっている。それに、つぎにスクリーンがフレームに入ってくるときには、そのスクリーンへのビデオ映像の投射は終了している。

あの思い出の海岸での撮影がそこで終わっているからこそ、つづきを流すことができないのだ、とかんがえるのが自然だろうと思う。

千晴を胸に抱いている紀美子にとってだけでなく、ビデオカメラを手にした通也にとっても、それ以上撮影をつづけることができないほど、5歳の千晴のセリフは切なさを感じさせるものなのだ。


なお、千晴(5歳)がこのセリフを紀美子の腕の中でしゃべっているシーンを撮影している通也の姿をこの作品はとらえている。カメラをかまえた通也が涙をこらえる、が、涙がこぼれ落ちてくる。それをあからさまにとらえたカットがひとつ(DVD本編では“20:00~”)。さらに、そのカットの直後のことだが、通也がカメラを顔に当てたまま、もう身動きできない…という《後ろ姿》をうつしたカット(DVD本編では“20:22~”)が、時間的には短いが、みごとに編み込まれている。

実に無駄のない編集だと私は思う。

(この稿、つづく)