新編 膝枕

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■映画「バースデー・ウェディング」(その11・補遺)~《作品分析》の意味~

これまで私は《作品分析》と称して作品の具体的な内容にまでふみこんで、映画「バースデー・ウェディング」を詳細に紹介してきたが、私がこのような紹介記事をブログに掲載した理由を簡単に述べておく。 ====

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(1)《作品分析》とは、作品の構成、作品をくみたてる諸々の要素のあいだの関係、とりわけ登場人物の性格を把握し、登場人物たちに起こる諸々の出来事の意味をあきらかにしつつ、作品全体のテーマとイデーをとりだすことである、と、かりに定義めいたものをしておくとすれば、《作品分析》とよぶべき行為のほんのひとかけらでもすることなしにある作品を紹介しようと試みることが、そもそも不可能であること、無意味であることに、気づいていただけるかと思う。

《作品分析》をまったくすることなしにある作品を紹介しようとすれば、その作品のタイトルだけ掲示して、《見てください》とか《おすすめします》とかとしか、記事を書くことはできない。それ以外にできることといえば、せいぜいがキャストとスタッフの名前、制作年を書くことぐらいだろう。


(2)なぜその作品をおすすめするのか、といえば、その作品がおもしろかったからであり、なぜおもしろいと感じたのか、といえば、その作品に、おもしろさを感じさせるところがあったからであり、その作品におけるおもしろさを感じさせるところとは何かといえば、まさに、登場人物がどんな行動をしたのか、どんなことをしゃべったのか、そして、そのとき周囲はどんな環境にあったのか…という作品の具体的な内容に属することにほかならない。

《私はこの作品を見ておもしろいと感じました。だからおすすめします》とだけ書かれた記事があるとしよう。ここにはおもしろいと感じた理由は書かれていない。この記事を読んだ人は、その記事の作成者がいったい何におもしろさを感じるのか、という記事作成者の嗜好までしらなければ、そのおもしろさの理由を知ることはできない。記事作成者の嗜好を知っていれば、漠然とであれ、作品のイメージは浮かぶかもしれない。

作品によっては《理由は語れないが、おもしろく感じた》ということもあることは否定できない。それを記事にするとすれば、それは、単に、自分がこのときこの作品を見ておもしろいと感じた、という心の動きを事実として記すにとどまる。そのような記事は、自分の心の動きの記録、より突っ込んでいうならば、自分の精神的な活動、精神的な態度の変遷をしめす一資料になるだけである。そうした心の動きの記録をのこすことを目的として、ブログの記事を書くこともあるだろう。

しかし、それだけしか書きしるしていない記事は、他の人にその作品を見るようにすすめる記事にはならない。せいぜい、そんな名前の作品が存在する、ということを教えるだけのことだ。


(3)さて、ある映像作品を見て感動したとする。感動したから、ぜひ、その作品を他の人にも見てもらいたい、他の人にもおすすめしたい、と考えたとする。では、どうすれば、その目的を実現することができるのか。その目的を実現するためにできることは、その作品を《分析》し、分析した結果を言葉に表すことしかありえない、と私は考える。

しかし、作品分析的な記述をともなわせてある作品を他の人に紹介するとき、その作品分析はどの深さまでなされるべきか、という問題がある。分析の深さには、大まかなあらすじを紹介するものから、微に入り細をうがつような分析をまとめたものまで、いくつもの段階がありうるだろう。

公開を前提としないものであれば、自己の欲求を満たす限りで、どんなレベルの分析でも許容されるだろう。自己の能力に応じて分析を深めればよい。ここにいう分析のレベルは、分析する人間の能力、分析を要求する状況に規定されたものであるが、一方で、作品そのものによって規定される分析のレベルの違いもある。

大まかなあらすじの紹介はどんな作品でも可能だろう。いっぽう、微に入り細をうがつような緻密な分析をすることは、どんな作品でも可能だというわけではない。ほんのちょっと細かく見ると矛盾ばかり、理解不能なことばかり…といった作品の場合、分析するという行為の結果は、その作品に《視聴する価値なし》というラベルを貼る行為に根拠を与えることにしかならない。《作品分析》という言葉をあてはめることすら不可能な作品もある。

《視聴する価値のない作品》を人に紹介するなんていうのは、誠実ではない行為だと私は考えている。そんな作品を人に紹介しないためにも、最低限の《作品分析》が必要だ。

つまるところ、よい作品を紹介するためにも、よくない作品を紹介しないためにも、《作品分析》は必要なのだ。


(4)《作品分析》をすると、その作品がつまらなくなるのではないか、という方がいるかもしれない。初見時と再見時とで視聴者がいだく感想はことなるのは当然だ。抱いた感想の方向性は異ならないとしても、何らかの点で感想の内容が異なったものになるのは、「初見」と「再見」という状況が異なるのだから、必然的な帰結である。しかし、それは、作品がつまらなくなるか否か、というのとは別の問題である、と私は考えている。

分析すると作品がつまらなくなる、なんていうことがあるとすれば、それは、その作品がそもそもつまらない作品なのだから、見る価値がないのだ。もともとつまらない作品に対して、分析を媒介にしたからつまらなくなった、というのは、理不尽な主張だ。まったくの見当外れな批判だとおもう。

よい作品であればあるほど、作品分析を突き詰めていくと、その作品の良さにドンドン気づくものだ。これは、作品分析なしには作品の本当の良さを知ることができない、ということを意味する。

(映画、ドラマ、小説…などから、いつまでも心からはなれない、いつまでも心に残りつづける感動をあじわった経験をもたない人には、私のこうした主張はそもそも理解できないかもしれない。)


(5)上に述べたことを、ここで簡単にまとめなおすとつぎのようになる。

よい作品であればあるほど、詳細な作品分析が可能になり、作品分析を詳細にすればするほど、ますますその作品の良さが意識に上るようになり、詳細な作品分析の結果を媒介にして、その作品からより多くの感動を得ることができる。

今回、私は映画「バースデー・ウェディング」という作品に関して、詳細な《作品分析》をこころみ、それを記事にしたわけだが、そうしたのは、この作品が本当によい作品であると思ったからである。そうであるがゆえに、この作品の良さを本当に責任を持って紹介するためには、詳細な作品分析を記事にすることが不可欠であると考えた。そして、分析記事が(その10)までつづく比較的長いものになったのは、本作がそれだけ詳細な分析を可能にする作品であったからである。


(6)《作品分析》であるとの位置づけで私は一連の記事を執筆したが、これをさして《ネタバレ》と考える人もいるかもしれない。《ネタバレ》とはなにか、ということについて、実は私はよく理解していない。何が《ネタバレ》であるのか、私はよくわかっていない。

《ネタバレ》と呼ぶのが妥当だと今の私が考える具体的な例としては、推理小説における犯人は誰か、という情報がある。推理小説をこれから読もうとする人に対して、この作品の犯人は××だ、とおしえるのは、《ネタバレ》であり、忌避するべき行為だと、私は思う。

しかし、本作は推理小説ではない。ある家族の生活、結婚式を淡々と描き出した作品である。物語の展開も実に単純である。単純ではあるが、この作品では、そうした出来事の一つ一つ、あるいは、そのつながり方が、感動を生み出すものになっている。この作品をみて感動したというとき、その感動をもたらしたものを提出することなしには、その感動の意味は伝わらない。感動をもたらしたものを紹介することなしには、その作品を人にお勧めすることもできない。一連の記事のなかで私が詳細な作品分析をしてみせたのは、この作品がいかに感動的な作品であるかということを紹介するためであるし、その感動の根拠を明らかにするためであった。

詳細な作品分析を知識としてもっていたとしても、この作品をはじめて見た方は、間違いなく感動するだろう。まえもっての知識なしに本作を見たときと比べてなんら遜色ない感動が得られるだろう。そのように私は考えている。


(7)上に述べたことの繰り返しになるのを承知の上で、さらにつけくわえよう。

よい作品は何度も何度も視聴することによって感動が深まるものであり、何度も何度も視聴するということは、意識的にせよ、無意識的にせよ、作品分析を深めることにほかならない。私は芸術作品に接することの意味をそのように理解している。したがって、読者の皆様が初見前に本作の作品分析にふれたからといって、本作からうける感動が薄まることなどけっしてない、と考えている。

人様にある映像作品を紹介するというとき、それが本当に紹介するに値する作品である、というのは大前提であると思う。というのも、紹介された人は、その作品をみるためにその作品の上演時間を消費することになるからである。相手に時間を使わせるということの意味を、紹介者はきちんと意識に上らせておくべきだと思う。そして、真に責任をもって紹介しようとするならば、その作品の良さを具体例をひきながら言葉で表現することになる。それこそが《作品分析》にほかならない。


(8)今回の私は形式的には学術的なスタイルを採用してはいないが、映画「バースデー・ウェディング」を対象とする学術的な研究の試案として本稿を作成した。それが《作品分析》になったのは、学術的な研究であることの必然的な帰結であるし、「学術的…」という言葉をもちいないとしても、真に責任ある紹介をしようとすれば、何らかのかたちで《作品分析》にふみこまざるをえなかった、という事情による。

本稿が真に学術的な意味で《作品分析》と呼ぶに値するのか否か、ということの決定は、識者の判断をまちたいと思うが、この場で私がこの試みをしたこと自体はけっして不当なものではないと確信している。(以上)