■映画「バースデー・ウェディング」(その7)~セリフだけによる背景描写~
【※本稿は 《作品分析》 の試案です。この点をふまえて先をお読みいただければ幸いです。】
本稿(その7)では、登場人物のセリフからよみとることのできるかれらの生活の様子を、言葉で表現してみる。 こうすることによって、本作が単純な構成のうちにいかに多くの情報を盛り込んでいるか、つまりは、本作の構成がいかに無駄のないものであるか、ということを明らかにすることができると思う。結果として、長いだけで内容の乏しい作品がまさにそのような作品にとどまることの原因を分析するための材料を提供することにもなる。
いまさらながらではあるが、再確認すると、この映画のタイトルは「バースデー・ウェディング」である。
「バースデー」(=誕生日)が物語の展開の重要なモチーフであることが、作品タイトルのうちにすでに表現されている。
「千晴5歳 思い出の海岸」での出来事として本作の冒頭部分で大きな比重をもって描き出されているのが、紀美子32歳の誕生日祝いの様子である。
その誕生日祝いの展開をおおざっぱに眺めるだけで、それまで飯田家でどのような誕生日の迎え方をしていたのか推察することができる。
その展開というのは、《5歳の千晴が自発的に砂で誕生日ケーキをつくり、母親の歳の数だけ小枝を集めようとし、自分からハッピーバースデーの歌を歌い出し、しかも、桜貝をプレゼントとしてさしだす》というものだ。
本稿では、これほど自明ではない、もう少し細かいところに目を向けてみようと思う。
ただし、本作はストーリーの展開が単純で、かつ、セリフの数、場面の数が少ないがゆえに、ここで紹介できることがらの数もすくなくならざるをえない。
まず千晴(5歳)のつぎのセリフをとりあげよう。このセリフは、本稿の(その6)でもとりあげたが、ここで注目したいのは下線を引いた箇所である。
実に単純なことだが、ここから、誕生日などのイベント時には飯田家ではいつもビデオがまわされていたことがわかる。実際、結婚式前日に通也がとりだした「千晴5歳 思い出の海岸 千晴へ」のテープの箱には、「千晴0歳」「千晴1歳」…のテープがいくつも入っている(正確に数えれば、「思い出の海岸」のテープを含めて13本である)。
一人娘の姿を写真やビデオにのこすなんてことは、どの家庭でもやっていることかもしれない。しかし、どの家庭でもやっている当たり前のことだから描写も不要だ、と考えることもできない。描写がなければ視聴者はその存在を(十分な確かさをもって)知ることができないのだ。かといって、その描写をあからさまなかたちでたくさん取り込めばよいというわけでもない。そんなことをすれば、冗長さを生み出してしまう。
どの家庭でもやっていることかもしれない、娘の姿をビデオに撮るということを、当たり前のこととしている飯田家。
本作では、これを5歳の千晴のこの短い言葉だけで見事に表現してみせたのだ。
(ここで、(ビデオカメラも安くなったものだ)とか、(ビデオカメラを持っているなんて金持ちだ)なんて考えるのは不当だろう。作品によっては、ビデオカメラを所有しているということがその家庭の経済状態をしめす小道具としてはたらくこともあるだろうが、本作でのビデオカメラはそのようなものとして機能しているわけではない。)
そして、同じ日、同じ海岸でのことだが、5歳の千晴が紀美子に桜貝のプレゼントを差し出すときのセリフ。
このへんの機微がわかるかなぁ。きれいなものを見つけたから、それを母親にあげたかった。それだけなんだけれど、たったこれだけのことのうちに、紀美子と通也が千晴をどのように育ててきたか、その様子を読み取ることができる。
つぎに取り上げたいセリフは、結婚式前日に千晴と通也のあいだにかわされる会話である。この日の会話から、本稿のテーマに関わるものを二つ紹介しよう。
ひとつは、テーブルで鍋をはさんでかわされるつぎの会話。
もうひとつは、夕食の準備にとりかかりはじめた千晴と部屋から出てきた通也のあいだの会話。
ひょっとしたら紀美子が死ぬ前から通也は料理が得意だったのかもしれない。あるいは紀美子の死後に料理を覚えたのかもしれない。どちらであるかは本作からは確定することはできないし、そうする必要もないだろう。
通也と千晴のここでのやりとりから読み取ることができるのは、すくなくとも千晴が物心ついたころには、通也は千晴が不自由しないだけの食事を用意してきた、ということである。
男親が幼い娘をひとりで育てることの大変さ、などということをいいたいわけではない。そんなのは、本作の描写を離れた、男女の役割分担のステレオタイプに基づいた議論である。私はそんな議論をしたいのではない。
ここで私が確認しておきたいのは、この短い言葉のうちに、二人の生活のスタイルが透けて見えてくる、ということである。父親が娘を育てるにあたって、どのような苦労があったのか、という精神論的な面での議論はここでは不要だと思う。精神論など必要ない。大事なのは、いかなる境遇にあろうとも、父親は娘に不自由な思いをさせることなく育ててきた、という事実なのである。その事実がこれだけの会話から透けて見えてくる。
男親と一人娘の家庭についてのステレオタイプなまなざしで本作をながめたいのなら、そうすればよい。私はそれが不当だと主張するだけの材料を本作からくみ取ることはできない。が、そうしたステレオタイプなまなざしを本作に向けることが妥当であると結論づける材料を本作からくみ取ることもできない。
作品の目に見える箇所だけを根拠にして、目に見えない裏の面を推し量るとすれば、うえに私が述べたようになる。
そして、これこそが飯田家の親子の情愛を、しかもその情愛が深いものであることを表現していると、私は考える。
(この稿、つづく)
本稿(その7)では、登場人物のセリフからよみとることのできるかれらの生活の様子を、言葉で表現してみる。 こうすることによって、本作が単純な構成のうちにいかに多くの情報を盛り込んでいるか、つまりは、本作の構成がいかに無駄のないものであるか、ということを明らかにすることができると思う。結果として、長いだけで内容の乏しい作品がまさにそのような作品にとどまることの原因を分析するための材料を提供することにもなる。
* * *
いまさらながらではあるが、再確認すると、この映画のタイトルは「バースデー・ウェディング」である。
「バースデー」(=誕生日)が物語の展開の重要なモチーフであることが、作品タイトルのうちにすでに表現されている。
「千晴5歳 思い出の海岸」での出来事として本作の冒頭部分で大きな比重をもって描き出されているのが、紀美子32歳の誕生日祝いの様子である。
その誕生日祝いの展開をおおざっぱに眺めるだけで、それまで飯田家でどのような誕生日の迎え方をしていたのか推察することができる。
その展開というのは、《5歳の千晴が自発的に砂で誕生日ケーキをつくり、母親の歳の数だけ小枝を集めようとし、自分からハッピーバースデーの歌を歌い出し、しかも、桜貝をプレゼントとしてさしだす》というものだ。
本稿では、これほど自明ではない、もう少し細かいところに目を向けてみようと思う。
ただし、本作はストーリーの展開が単純で、かつ、セリフの数、場面の数が少ないがゆえに、ここで紹介できることがらの数もすくなくならざるをえない。
* * *
まず千晴(5歳)のつぎのセリフをとりあげよう。このセリフは、本稿の(その6)でもとりあげたが、ここで注目したいのは下線を引いた箇所である。
千晴 「つぎのお誕生日はもっとおーきなケーキをつくってあげるね。それでね。ママをもっと驚かせてあげる。それでね。たくさん、たーくさん、またビデオとるの。つぎの誕生日はね。もっとすごいプレゼントするね。今度はね、おおきいのにするね。(以下省略)」
実に単純なことだが、ここから、誕生日などのイベント時には飯田家ではいつもビデオがまわされていたことがわかる。実際、結婚式前日に通也がとりだした「千晴5歳 思い出の海岸 千晴へ」のテープの箱には、「千晴0歳」「千晴1歳」…のテープがいくつも入っている(正確に数えれば、「思い出の海岸」のテープを含めて13本である)。
一人娘の姿を写真やビデオにのこすなんてことは、どの家庭でもやっていることかもしれない。しかし、どの家庭でもやっている当たり前のことだから描写も不要だ、と考えることもできない。描写がなければ視聴者はその存在を(十分な確かさをもって)知ることができないのだ。かといって、その描写をあからさまなかたちでたくさん取り込めばよいというわけでもない。そんなことをすれば、冗長さを生み出してしまう。
どの家庭でもやっていることかもしれない、娘の姿をビデオに撮るということを、当たり前のこととしている飯田家。
本作では、これを5歳の千晴のこの短い言葉だけで見事に表現してみせたのだ。
(ここで、(ビデオカメラも安くなったものだ)とか、(ビデオカメラを持っているなんて金持ちだ)なんて考えるのは不当だろう。作品によっては、ビデオカメラを所有しているということがその家庭の経済状態をしめす小道具としてはたらくこともあるだろうが、本作でのビデオカメラはそのようなものとして機能しているわけではない。)
そして、同じ日、同じ海岸でのことだが、5歳の千晴が紀美子に桜貝のプレゼントを差し出すときのセリフ。
千晴 「きれいでしょ。」
このへんの機微がわかるかなぁ。きれいなものを見つけたから、それを母親にあげたかった。それだけなんだけれど、たったこれだけのことのうちに、紀美子と通也が千晴をどのように育ててきたか、その様子を読み取ることができる。
* * *
つぎに取り上げたいセリフは、結婚式前日に千晴と通也のあいだにかわされる会話である。この日の会話から、本稿のテーマに関わるものを二つ紹介しよう。
ひとつは、テーブルで鍋をはさんでかわされるつぎの会話。
通也 「心配するな。どっちの方が料理うまいと思っているんだ。」
千晴 「うまくなるわよ。そのうち。」
もうひとつは、夕食の準備にとりかかりはじめた千晴と部屋から出てきた通也のあいだの会話。
通也 「報告、いってきたのか?」
千晴 「うん。お母さんも気持ちよさそうだったよ。すっごいいい天気でさー。」
通也 「そうか。手伝おうか?」
千晴 「いいから、お父さんは座ってて。」
ひょっとしたら紀美子が死ぬ前から通也は料理が得意だったのかもしれない。あるいは紀美子の死後に料理を覚えたのかもしれない。どちらであるかは本作からは確定することはできないし、そうする必要もないだろう。
通也と千晴のここでのやりとりから読み取ることができるのは、すくなくとも千晴が物心ついたころには、通也は千晴が不自由しないだけの食事を用意してきた、ということである。
男親が幼い娘をひとりで育てることの大変さ、などということをいいたいわけではない。そんなのは、本作の描写を離れた、男女の役割分担のステレオタイプに基づいた議論である。私はそんな議論をしたいのではない。
ここで私が確認しておきたいのは、この短い言葉のうちに、二人の生活のスタイルが透けて見えてくる、ということである。父親が娘を育てるにあたって、どのような苦労があったのか、という精神論的な面での議論はここでは不要だと思う。精神論など必要ない。大事なのは、いかなる境遇にあろうとも、父親は娘に不自由な思いをさせることなく育ててきた、という事実なのである。その事実がこれだけの会話から透けて見えてくる。
男親と一人娘の家庭についてのステレオタイプなまなざしで本作をながめたいのなら、そうすればよい。私はそれが不当だと主張するだけの材料を本作からくみ取ることはできない。が、そうしたステレオタイプなまなざしを本作に向けることが妥当であると結論づける材料を本作からくみ取ることもできない。
作品の目に見える箇所だけを根拠にして、目に見えない裏の面を推し量るとすれば、うえに私が述べたようになる。
そして、これこそが飯田家の親子の情愛を、しかもその情愛が深いものであることを表現していると、私は考える。
(この稿、つづく)