新編 膝枕

智に働きたいと思いながら、なんかやってます。

■映画「バースデー・ウェディング」(その2)~再見後の初期的感想~

本稿は(その1)のつづきであり、映画「バースデー・ウェディング」を再見して私が最初に感じたことを記録しておくものである。
なお、私が本作品を初見したのは昨年(2009年)の夏である。今の時期に再見した理由は(その1)に記したとおりである。前稿もあわあせてお読みいただければ幸いである。

参考:「映画「バースデー・ウェディング」(その1)~木村多江の言葉~」(2010年2月2日)


* * *



出演:木村多江上原美佐田中哲司忍成修吾、ほか
 (本作は「上原美佐」の初主演映画である)
監督:田澤直樹
脚本:児玉頼子
音楽:矢野絢子
主題歌:矢野絢子「瞬き」
2005年、73分



病気が進行し、余命が短い紀美子(木村多江)は、夫とともに、5歳の娘(役名:千晴)をつれて海岸にいく。ここで主題歌のメロディーがインストでながれる。私はこの時点で涙がながれた。弦の音色がとにかく切ない。

じつは、その日は紀美子の32歳の誕生日であった。5歳の娘が母親のために砂で誕生日ケーキを作ってくれた。

涙がボー。

その日の帰りの坂道。春には小学校に入学し、ランドセルを背負うことになる娘の姿を見ることができない紀美子(木村多江)。

「見たかったなぁ」という紀美子のセリフ。

涙がボー。

その日の夜、紀美子は、成長した未来の娘に語りかけるビデオレターを作成した。

その16年後、結婚式前日の夜、千晴(上原美佐)がそのビデオテープをたまたま発見した。そのテープの背中には「千晴5歳 思い出の海岸 千晴へ」の文字。再生するとそこには母親の姿が。

木村多江の演技。そして、ビデオ内に登場する5歳の千晴の姿。

涙がボー。

翌日の結婚式。
田中哲司の席のとなりには紀美子の席も用意されている。
言葉数の少ない田中哲司が思い出のつまったビデオカメラを手にとる。
桜貝の小瓶。

涙がボー。

その日は16年前になくなった母親(紀美子)の誕生日。あの日のビデオ映像が式場に映し出されるなか、母親のバースデーケーキが登場する。

涙がボー。

最後のシーン。海。千晴と夫、娘。桜貝が2枚…

涙がボー。


さらに、音楽も印象的。担当は「矢野絢子」。
エンディングでは歌詞付きの主題歌が流れるが、劇中のあちらこちらでながれるのはインスト。

弦の音色、ピアノの音色……私はそのひとつひとつに涙がボーッときた。


* * *



今の私は、意識的に心を突っ張らせていて、ゆえに、普通なら感動するはずの映像作品をみても、素直に涙がでない。でも、この作品ではボーボー涙がでた。上に書ききれないぐらい、多くのシーンで涙が出た。

登場人物のセリフの少なさが、作品からうける感動を深めていると感じた。余計なことを言わなくても、人間の感情は伝わるのだ。再見をして、これは実に名作だ、と思った。木村多江がすさまじくすばらしいが、彼女の演技力だけでは味わうことのできないはずの感動だ。名作だ。再見してよかった。


最後に、衒学的だといわれることを承知の上でひとつだけ。

結婚式当日、受付時間帯に式場に流れる音楽。

モーツァルト「ディヴェルティメントK136」第2楽章。

以前、このブログにも書いたが、私はK136(とくに第2楽章)に強い思い入れがある。この曲を耳にすると、ある演奏のイメージがよみがえってくる。その演奏を頭に思い浮かべるだけで涙が出てくることもある。

「バースデー・ウェディング」という作品は、視聴中に意識をほかのものにむけることをゆるさない名場面ばかりだと思うのだが、私は、K136がながれると、どうしてもその演奏のイメージがよみがえってきてしまい、ここだけは作品に集中することができなかった。

もっとも、劇中にながれる演奏はディヴェルティメント(=嬉遊曲)にふさわしいものなのだろうとは感じた。

ただ、このシーンでは作品の世界に浸り続けることができなかったということは、備忘録として正直に記録しておく。多分に、これは私のきわめて個人的な事情によると思う。


* * *



さて、いつもならこの程度の感想を記しただけでDVD鑑賞記録の記事を終了させるのだが、今回はさらに細かくこの作品を分析的に紹介するこころづもりでいる。


それはつぎの理由による。

今の私から異常に涙を引き出した作品を丁寧に紹介したいという思いが、まず第一。

再見を終えて、この作品が、単純なストーリーながら、緻密な構成をもっていることに気づいた。この緻密な構成は、当然ながら、作品の表面に現れている。その緻密さを明示したい、というのが第二。

そして、第三の理由。
すでに(その1)にしるしたように、私は木村多江の言葉を書き起こすためにDVDの特典映像を視聴した。その結果、完成した作品の表にはあらわにされていない背後で、緻密に計算された登場人物の設定がなされていることに気がついた。

第三の理由にあげたことは、映像作品に関してなんらかの評論めいたことをするときに考慮に入れてはいけないことだろう。それに、第三の点にまで言及しなくても、この作品の良さを十分に伝えることは可能だろう。しかし、ここまで視野に入れると、この作品のすばらしさ、制作陣の本気さがよりよく伝わるだろう、とも思う。

さきに、「余計なことを言わなくても、人間の感情は伝わるのだ。」と私は書いた。「余計なことを言わなくても、人間の感情は伝わる」ということの具体的な事例を、この作品をもとに論じてみたい。

今回私が本作「バースデー・ウェディング」を再見したことの根底には、「星になった少年」という作品に関してその具体的な内容にほとんど触れない記事を書き、酷評に近いことをしたことが位置している。そうであるからこそ、「余計なことを言わなくても、人間の感情は伝わる」ということの意味を私なりのし方で明らかにしておきたいという気持ちが強い。


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現時点ではどれだけの分量になるか私自身予想がつかないが、順次、映画「バースデー・ウェディング」に関する記事を掲載していくことにする。

作品そのものが73分と短いがゆえに、私の掲載する記事もそれほど大きな分量にはならないと思う。読者の皆様にはゆっくりとおつきあいいただければ幸いである。

(この稿、つづく)