■「星になった少年」をみた。
映画 「星になった少年」 のDVDをみた。
(副題:Shining Boy & Little Randy)
出演:蒼井優、高橋克実、ほか
音楽:坂本龍一
まず、僕がこの作品をレンタルしてきた理由をのべよう。
過去の記事にも書いたことだが、僕は他のDVDに収録された予告編映像でこの作品の存在を知った。そこには「蒼井優」がうつっていた。「坂本龍一」が音楽を担当していることも予告編映像で知った。
「蒼井優」
僕が「蒼井優」を意識したのは、昨年の夏に「花とアリス」をみたときがはじめてだから、それ以前の僕だったら、おそらく「蒼井優」がめあてでこの作品をレンタルしてくることはなかっただろう。しかし、今回レンタルしてきた理由には「蒼井優」の存在が大きな部分をしめている。
「坂本龍一」
僕は真にコアな坂本ファンであるとはいえないかもしれないが、「Little Buddha」までのサントラCDはすべて所有し、聞き込んでいる。ソロアルバムも、一時期の《癒し》ブームで「にわか坂本ファン」が増えた時期より前の作品の大部分は聴いてきている(いまは最近の坂本の音楽もきくようになった)。YMOも、当然ながら、きいている。
その坂本龍一が音楽を担当した映画をみないわけにはいかない。ましてや、坂本龍一はベルトルッチといっしょに仕事をすることで、「映像のサイズに合わせた音楽」を作るなんてことを当然のようにこなす。今の坂本の仕事を拝見したい、そして楽しみたい、という思いがあった。
※ここで一つだけ注釈を。
映像のサイズに音楽を合わせるというのは坂本だけがやっていることではない。したがって、この一事をもって坂本を偉大視するような行為はやめてほしい。僕は坂本を偉大な音楽家だと思っているが、一方で、たとえば《癒し》云々しか知らないような人には坂本の音楽を語って欲しくない、とも思う。彼の映画音楽についても、その思いはかわらない。
なお、ここで、「映像のサイズに合わせた音楽」ということを、今、あらためて考えるようになったのは、これまた過去の記事にも書いたことだが、TV版セカチューをみて、「映像と音楽がぴったり合っていたらもっといいのに」と思ったからである。
(第三話の終わりのシーンでは映像と音楽がぴったり合っていて、それに僕は非常に感心したんだね。あそこで感心したがゆえに、サイズが合っていない箇所が気になって、もったいなくて仕方なかった。)
さてさて、前置きが長くなった。
つまるところ、僕がこの作品を見ようと思ったのは、「蒼井優」と「坂本龍一」がいたからである。(もうひとり、朔太郎父を演じた「高橋克実」もいる)
で、目的は実現したと思いたい。
「蒼井優」
彼女はどこで登場するのだろう、と期待して、ずっと待っていて、半分以上経過して、やっと「蒼井優」がでてきてくれたときの喜びを理解していただけるでしょうか? 「蒼井優」には非常に満足したわけです。
「坂本龍一」
「映像」(人の動き、場面の切り替わり、登場人物の感情…などなど)と「音楽」(音量、楽器の選択、曲調…などなど)がタイミングの点でぴったり合っていた。
(ただ、僕は「メリークリスマス・ミスターローレンス」、「ラストエンペラー」、「シェルタリングスカイ」、「リトルブッダ」などは名曲だと思っているが、この映画の音楽が名曲だと思うか否かには、ここでは言及しない。言及しない理由は、一度しか耳にしていないから、ということにしておく)
僕は終始「冷めた目」でこの作品を見ていた、ということだけは、備忘録として記録しておこう。
「冷めた目」の内実を語るとすれば、次の2点。
第1点。
作品本編の評価とは切り離すべきことかもしれないが、制作陣の基本姿勢とけっして無関係とはおもえない、ある一つの象徴的なこと。
この作品の予告編映像にかぶさる「実話から生まれた感動の超大作」という文言。
確かにロケのスケールは大きいと思う。でも、「感動」という言葉なしに感動をあたえてほしい。文学作品でもそうだが、本当に感動する作品には、感動などというキャッチフレーズは不要だ。感動を呼び起こす人間の行動だけを淡々と描き出してくれれば、それで十分だ。緻密なシナリオと素敵な俳優が必要なのは、まさにそのためなのだ。
第2点。
映画の最後のシーン。
「常盤貴子」と「蒼井優」が屋根の上でかたりあう。
泣くときの声が大きければよいというものではないでしょう。人間の感情はもっとべつのところにも現れるんじゃないでしょうか?そういうところでこそ、人間の感情を描き出してほしい。
僕はこのシーンの「蒼井優」には満足したし、彼女の出演作は今後も順番にみていこうと思っているので、ここをお読みの方は誤解なきよう。
僕は「木村多江」ファンである、ということは過去の記事にも書いているが、その木村多江の言葉を、不正確ながら、ここに紹介しておこう。
それは、映画「バースデーウェディング」の特典映像として収録された、木村多江にたいするインタビューでの言葉。
この映画での木村多江は、幼い娘を残して病気で死ぬ母親役だ。この母親が娘にむけてビデオレターをのこす。このビデオレター内の演技をするにあたっての木村多江の心構えが語られている。
その心構えはつぎの一言に集約される。
「私が泣くことなしに、お客さんを泣かせたい」
※ここに書き記すために「バースデーウェディング」のDVDを再見したわけではないので、正確な引用ではないことをお許しください。
〔2月2日、管理人追記〕
ここで言及した木村多江の言葉を正確に引用して紹介する記事を掲載しましたので、そちらもお読みいただければ幸いです。
映画「バースデー・ウェディング」(その1)~木村多江の言葉~
(2010年2月2日掲載)
(http://hagiwara-youichi.cocolog-nifty.com/blog/2010/02/post-6a7d.html)
蛇足的なまとめになるが、映画も「総合芸術」なんだろうなぁ。 (以上)
出演:蒼井優、高橋克実、ほか
音楽:坂本龍一
* * *
まず、僕がこの作品をレンタルしてきた理由をのべよう。
過去の記事にも書いたことだが、僕は他のDVDに収録された予告編映像でこの作品の存在を知った。そこには「蒼井優」がうつっていた。「坂本龍一」が音楽を担当していることも予告編映像で知った。
「蒼井優」
僕が「蒼井優」を意識したのは、昨年の夏に「花とアリス」をみたときがはじめてだから、それ以前の僕だったら、おそらく「蒼井優」がめあてでこの作品をレンタルしてくることはなかっただろう。しかし、今回レンタルしてきた理由には「蒼井優」の存在が大きな部分をしめている。
「坂本龍一」
僕は真にコアな坂本ファンであるとはいえないかもしれないが、「Little Buddha」までのサントラCDはすべて所有し、聞き込んでいる。ソロアルバムも、一時期の《癒し》ブームで「にわか坂本ファン」が増えた時期より前の作品の大部分は聴いてきている(いまは最近の坂本の音楽もきくようになった)。YMOも、当然ながら、きいている。
その坂本龍一が音楽を担当した映画をみないわけにはいかない。ましてや、坂本龍一はベルトルッチといっしょに仕事をすることで、「映像のサイズに合わせた音楽」を作るなんてことを当然のようにこなす。今の坂本の仕事を拝見したい、そして楽しみたい、という思いがあった。
※ここで一つだけ注釈を。
映像のサイズに音楽を合わせるというのは坂本だけがやっていることではない。したがって、この一事をもって坂本を偉大視するような行為はやめてほしい。僕は坂本を偉大な音楽家だと思っているが、一方で、たとえば《癒し》云々しか知らないような人には坂本の音楽を語って欲しくない、とも思う。彼の映画音楽についても、その思いはかわらない。
なお、ここで、「映像のサイズに合わせた音楽」ということを、今、あらためて考えるようになったのは、これまた過去の記事にも書いたことだが、TV版セカチューをみて、「映像と音楽がぴったり合っていたらもっといいのに」と思ったからである。
(第三話の終わりのシーンでは映像と音楽がぴったり合っていて、それに僕は非常に感心したんだね。あそこで感心したがゆえに、サイズが合っていない箇所が気になって、もったいなくて仕方なかった。)
* * *
さてさて、前置きが長くなった。
つまるところ、僕がこの作品を見ようと思ったのは、「蒼井優」と「坂本龍一」がいたからである。(もうひとり、朔太郎父を演じた「高橋克実」もいる)
で、目的は実現したと思いたい。
「蒼井優」
彼女はどこで登場するのだろう、と期待して、ずっと待っていて、半分以上経過して、やっと「蒼井優」がでてきてくれたときの喜びを理解していただけるでしょうか? 「蒼井優」には非常に満足したわけです。
「坂本龍一」
「映像」(人の動き、場面の切り替わり、登場人物の感情…などなど)と「音楽」(音量、楽器の選択、曲調…などなど)がタイミングの点でぴったり合っていた。
(ただ、僕は「メリークリスマス・ミスターローレンス」、「ラストエンペラー」、「シェルタリングスカイ」、「リトルブッダ」などは名曲だと思っているが、この映画の音楽が名曲だと思うか否かには、ここでは言及しない。言及しない理由は、一度しか耳にしていないから、ということにしておく)
* * *
僕は終始「冷めた目」でこの作品を見ていた、ということだけは、備忘録として記録しておこう。
「冷めた目」の内実を語るとすれば、次の2点。
第1点。
作品本編の評価とは切り離すべきことかもしれないが、制作陣の基本姿勢とけっして無関係とはおもえない、ある一つの象徴的なこと。
この作品の予告編映像にかぶさる「実話から生まれた感動の超大作」という文言。
確かにロケのスケールは大きいと思う。でも、「感動」という言葉なしに感動をあたえてほしい。文学作品でもそうだが、本当に感動する作品には、感動などというキャッチフレーズは不要だ。感動を呼び起こす人間の行動だけを淡々と描き出してくれれば、それで十分だ。緻密なシナリオと素敵な俳優が必要なのは、まさにそのためなのだ。
第2点。
映画の最後のシーン。
「常盤貴子」と「蒼井優」が屋根の上でかたりあう。
泣くときの声が大きければよいというものではないでしょう。人間の感情はもっとべつのところにも現れるんじゃないでしょうか?そういうところでこそ、人間の感情を描き出してほしい。
僕はこのシーンの「蒼井優」には満足したし、彼女の出演作は今後も順番にみていこうと思っているので、ここをお読みの方は誤解なきよう。
* * *
僕は「木村多江」ファンである、ということは過去の記事にも書いているが、その木村多江の言葉を、不正確ながら、ここに紹介しておこう。
それは、映画「バースデーウェディング」の特典映像として収録された、木村多江にたいするインタビューでの言葉。
この映画での木村多江は、幼い娘を残して病気で死ぬ母親役だ。この母親が娘にむけてビデオレターをのこす。このビデオレター内の演技をするにあたっての木村多江の心構えが語られている。
その心構えはつぎの一言に集約される。
「私が泣くことなしに、お客さんを泣かせたい」
※ここに書き記すために「バースデーウェディング」のDVDを再見したわけではないので、正確な引用ではないことをお許しください。
〔2月2日、管理人追記〕
ここで言及した木村多江の言葉を正確に引用して紹介する記事を掲載しましたので、そちらもお読みいただければ幸いです。
映画「バースデー・ウェディング」(その1)~木村多江の言葉~
(2010年2月2日掲載)
(http://hagiwara-youichi.cocolog-nifty.com/blog/2010/02/post-6a7d.html)
* * *
蛇足的なまとめになるが、映画も「総合芸術」なんだろうなぁ。 (以上)