■TV版「世界の中心で、愛をさけぶ」再見中(その4)
TV版「世界の中心で、愛をさけぶ」 のDVDを再見している。
たったいま、本編全5巻のうちの第4巻(第7話と第8話)をみた。
正直、どんな感想を残しておくべきか、迷っている。
冷静に、分析的に作品の構成に感じたことを記すか。
心が揺り動かされた箇所を、すなおに書き留めておくか。
名作だ。
それはまちがいない。
でも、僕のこの「さめたまなざし」はなんだろう?
このようなドラマの鑑賞の場で《政治》はしたくない。
当事者になる前も後も、おそらく、ぼくはこの作品を鑑賞した後には同じことを考えただろうと、ほぼ確信しているのだが(というのも、ぼくの考え方の基本的なイデー(おおげさにいえば、人間観・世界観だ)はまったくずれていないからだ)、《社会通念上そう考えるのが普通》《社会通念上、そういう言動をしなければ嫌われる》といった描写がチラホラされる(この手の描写を皆無にすることは、きわめて難しいのだろうとは思う。「チラホラ」だから、その手のことをあからさまにねらった映像作品とは一線を画している。これは丁寧な作りのドラマだと思う)。《社会通念上そう思っておいた方がいいこと》と《自分が実際に感じること》とは別なんだよね。
そこをどう折り合いをつけていくか、それがものすごく難しいと思うんだ。
第8話の最後、朔太郎、ついに亜紀に「好き」ということばをいうね。
名場面だと思う。
嫌いなところを5つあげたあと。
「それ以外は全部好き」
でも、ぼくならおもう。
「それも含めて全部好き」
ま、いい。
ストーリーの流れではこれで十分。というか、これしかない(…かな?)。
亜紀に外出許可が出て、亜紀が学校に行く。
そして、例のウォークマンでのメッセージ。
「コロッケパンが食べたいぞよ」
この綾瀬はるかの声がすばらしくかわいらしい。
で、その日の昼、朔太郎と亜紀にコロッケパンを食べる時間がやっと訪れる。
(いままで、コロッケパンがからむと、いろんな邪魔が入っていたからね)
コロッケパンを食べた描写はなされないけれど、二人は学校を抜け出して、最後は朔太郎のうちにいく。
この日の一連の場面に関する感想は、今の僕には、ここには書ききれない。
やはり、最後に分析的なことを。
ベルナルド・ベルトルッチと坂本龍一ならもっと本気で映像のサイズに合わせた音楽を作るんだろうが、毎週の放送枠が決まっているTVドラマにおいては、この詰めの甘さは仕方ないのかな。なんか、もったいない。