■横溝正史『白と黒』
横溝正史『白と黒』を読んだ。(*注1)
おもしろかった。
はっきり言えば、本作には《欠陥》がある。しかも作品冒頭からの《欠陥》だ。
(トリックに直接かかわる《欠陥》ではないとしても、ひとつの文学作品として描写に《欠陥》があることに違いはない。(《欠陥》についてはあとで述べる。))
それに、第三章「孤独な管理人」でしるされているようなことがら(*注2)については、きっと石川達三のほうがうまく書くだろうし、実際に書いているだろうと思った。(遠藤周作にも似たような発想の作品があったような気もするが・・・)
ともかく。
本作はよくできている。
よくできている箇所はたくさんある。
たくさんの箇所を紹介するのはたいへんだから、1箇所だけひくと。
宇津木慎策が神戸からもたらした三枚の写真は、まず順子によって鑑定された。そして髪かたち、よそおいなどはちがっているものの、タンポポのマダムにちがいなしという証言をえて、つぎに京美の鑑定をうけた。三枚の写真を見せられたときの、京美の衝撃は大きかった。それでもタンポポのマダムであるように思うと、よわよわしい声で証言した。
さいごにそれを見た河村松江は、しさいらしく三枚の写真を点検したのち、マダムにちがいないと断言した。(pp.500-501)
この箇所がよくできている理由を根拠とともに具体的に述べると完全なネタバレになってしまう。
いかにネタバレを忌避しない僕のこのブログでも決定的な核心にふれる完全なネタバレは避けたいと思う。
だから、ここでは、「タンポポのマダム」とそれぞれのしかたで関わりをもってきた三人の女性の反応がうまい具合に短く描き分けられている、とだけしるしておく。
おもしろかった。
僕が読んだのは注1でしるした紙の角川文庫であるが、僕はこの紙の角川文庫を入手する前にKindle版を購入してあった。
Kindle版をもっているのにわざわざ紙版を読んだのは、紙のほうが読みやすいからである。
Kindle版の表紙はかつての角川文庫で採用されていた杉本一文氏の手になるイラストである。
本作を読み終えて、『白と黒』という作品における杉本氏の表紙イラストがぬきんでてよくできていると思った。
いかなる点でぬきんでてよくできているのか、具体的に根拠をしめすと、核心にふれるネタバレになってしまうので、ここではよくできていると抽象的に述べるだけにして、つぎにその表紙をキャプチャした画像をはりつけておく。
(クリックすると、ポップアップで大きな画像が表示されます。以下同じ。)
このKindle版の奥付はつぎのとおり。
横溝正史『金田一耕助ファイル18 白と黒』角川e文庫、2002年
みてわかるように、このKindle版は「2002年6月20日改版8版」の角川文庫を底本にしたものである。
うえで僕は《欠陥》と述べた。
つぎにその《欠陥》を具体的に記録しておく。
横溝はみずからをストーリーテラーと自認していたようで、実際、横溝作品における登場人物の性格づけ、設定された性格の人物たちの織りなす物語の展開はじつに魅力的なのだが、その一方で空間・時間の書き込みの点でツメがあまいようにも思う。
ここにいう《欠陥》というのはそのツメのあまさのあらわれであるといえるかもしれない。
(この記事では『白と黒』だけにふれるが、僕がこのブログに掲載してきた横溝作品の感想記事のなかには《欠陥》にふれたものがいくつかある。ここではあえて内部リンクをはるようなことはしないが、この記事をめにされたかたにはそれらを読んでもらえれば、僕がこの記事で述べたことがわかってもらえるだろうと思う。)
本作の冒頭には「プロローグ」(pp.7-14)が配置されており、詩人のS・Y先生が愛犬の散歩をしているときの出来事がえがかれる。
散歩の最中、S・Y先生は東の空に現代の蜃気楼(住宅団地)を発見する。
なぜなら、愛犬が東の空にむかって吠えたからである。
S・Y先生は、そのときの状況から、愛犬が吠えた理由をある男の双眼鏡のレンズの輝きにあると考えた。
(その愛犬は2度吠えたが、2度とも同じ理由で吠えたと読み取ることができる。)
その男はS・Y先生のそばのコブ状の丘のうえにたって、現代の蜃気楼のほうを双眼鏡でのぞいていたようだ。
現代の蜃気楼(A)を双眼鏡でのぞいていた男(B)。
双眼鏡のレンズの輝きにむかって吠えたてた犬(C)およびその犬と一緒にいたS・Y先生(C')。
現代の蜃気楼(A)は犬(C)とS・Y先生(C')の東側にある。
つまり。
西 C(C') ― B ― A 東
という配置になるだろうか。
が、これでは、Bの手にしている双眼鏡のレンズの輝きはCの目にはいってこない。
おかしい。
A、B、C(C')が直線ではなく三角形をなすような位置にあるのなら、矛盾は消えるかもしれない。
矛盾のない解釈を一生懸命考えてしまった。
が、つぎの記述によって、三角形のイメージをつくることによるつじつま合わせは無意味になる。
S・Y先生はなにげなくじぶんの背後をふりかえった。そして、その男とじぶんをつなぐ直線を、はるか遠くへ延長していくと、帝都映画のスタジオをこえ、あの団地の建物につきあたることに気がついた。(p.11)
A、B、C(C')は直線をなしていた。しかも、C(C')はAとBの中間にいた。
すなわち
西 B ― C(C') ― A 東
これなら、たしかに現代の蜃気楼のほうをむいていた双眼鏡のレンズの輝きがCの視界にはいることははいる。
しかし、これならCが吠える方向は西になる。Cの吠え声に引きつけられたC'が東の空をみるはずがない。
この記述は次の記述と完全に矛盾する。
もはや、なんとかしてつじつまがあるように、好意的に、こじつけ的に解釈してあげる余地はない。
川崎の空模様もS・Y先生の頭のうえと似たりよったりだったが、そのうちに愛犬カピが東の空にむかって猛烈に吠え出し、なにげなくそのほうをふりかえったS・Y先生も茫然としてそこに立ちすくんでしまった。S・Y先生と愛犬カピは東の空になにを見たのであろうか。かれはそこに現代の蜃気楼を発見したのである。
(略)
とつぜん、カピがまたけたたましく吠えだした。
S・Y先生はそこではじめて、さきほどカピが吠えたのは、じぶんのように詩人的感動にゆすぶられたせいではなかったことに気がついた。
(略)
(略)そして、その自動車のぬしらしい男が、丘のうえに立っているのである。
カピが吠えているのはその男にたいしてであった。では、なぜカピはその男を、怪しむべきものと認めたのか。それはその男が双眼鏡をもっているかららしい。(pp.8-10)
この記述からは、C(C')が東をむいたときにAとBをみていることがはっきりわかる。
すなわち
西 C(C') ― B ― A 東
このように「プロローグ」には矛盾が存在する。
以上、《欠陥》のひとつめ。
つぎに《欠陥》のふたつめ。
ここでとりあげるのは「プロローグ」のつぎに配置される「第一章 Ladies and Gentlemen」(pp.15-40)と「第二章 タールの底」(pp.40-63)である。
順子の部屋のあるフロアーは何階か?
順子の部屋は一八二一号室、これは十八号館の二一号室という意味で、団地全体に一八二一世帯もあるわけではないと、順子が説明した。(p.22)
いい忘れたが一八二一号室は、十八号館の三階になっている。(p.31)
順子の部屋は三階にあるようだ。
しかし・・・
こちらからみると順子の部屋は、右からかぞえて五番目の一階で、現場からほぼ正面にあたっている。(p.45)
順子の部屋が一階にあるようだ。
同じ部屋が三階になったり、一階になったりするのはおかしい。
次はだめ押し。
これをみると、横溝が執筆中におかした1箇所だけの書き間違いではないことがあきらかだ。
「君のいうのはあの男じゃないかね。あそこにエカキらしいのが絵をかいているぜ。ほら、むこうのアパートの三階の、右から六番目の部屋だ。ほら、あそこ……」そこから見えるのは第十八号館の南側である。第十八号館の三階の右から六番目の部屋といえば、順子の部屋と廊下ひとつへだてたむかいの部屋の、一階おいてうえの部屋にあたっている。(p.54)
ここからも順子の部屋が一階であることがわかる。
ちなみに、数10ページにわたるマクロな視点では矛盾が生じるが、数行のミクロな視点では矛盾はない。
さきにしめした箇所の後続部分をあわせて引用すると・・・
いい忘れたが一八二一号室は、十八号館の三階になっている。だからそこのテラスに立つと、将来緑地帯になるはずの帯状の空き地をこえて、目下完成途上にある第二十号館の北側が、すぐ眼と鼻のあいだに見える。(p.31)
三階の高所のように視点が高くなると、地面に立っているときにくらべて、空間が狭く感じる、つまり隣のものがちかくにみえるというのは、日常生活で経験することだ。空間的配置と人間の知覚とのあいだに矛盾はない。
こちらからみると順子の部屋は、右からかぞえて五番目の一階で、現場からほぼ正面にあたっている。しかし、その第十八号館のあいだにできるはずの緑地帯は、いま土がいちめんにこねくりかえしてあり、あちこちに砂礫の山ができているので、順子の部屋のテラスからでは、死体をおおっていたゴザのはしも見えなかった。(p.45)
一階のような低いところからの視点では、砂礫の山が邪魔になって、その山の向こうのものがみえないのも当然だ。やはり、ここでも空間的配置と人間の知覚とのあいだに矛盾はない。
でも、マクロな視点でも矛盾がないようにしてほしかった。
以上、《欠陥》のふたつめ。
次に述べることは誤植の可能性が十分にある(うえであげたKindle版は紙版と同一であるが、他の出版社のテキストとの比較をしていない)。
ゆえに、横溝のせいではないのかもしれない。
「インターバル」(pp.203-212)につぎの記述がある。
(略)したがって事件発生後すでに二週間になるきょう十月十五日にいたるまで、はっきりそれが推定被害者(略)であると、断定できていないらしいというところにS・Y先生はいたく興味をそそられたのである。(pp.204-205)
この記述だけをみると、事件発生は10月1日であることになるが、実際には事件が起こったのは(死体が発見されたのは)10月11日である。だから、その2週間後は10月25日である。
本作は他の箇所で「25日」を「二十五日」、「26日」を「二十六日」…と表記している。この表記を一貫させれば、「25」が表現されるべきこの箇所での漢数字表記は「二五」ではなく、「二十五」になるはずである。それが「十五」になっているとすれば、これは「二十五」の「二」が欠落してしまった結果であると解釈することが可能になる。「15」のつもりで「十五」と記載されているのなら、誤植ではなく、横溝の勘違い、あるいは編集者のチェックミスである。(編集者は内容の整合性もチェックしなければならない存在だ。)
以下は完全に蛇足。
本作には体言止めのセンテンスが何ヶ所かある。
横溝はこんなセンテンスをもちいる作家ではないと思っていた。
が、本作では体言止めが目につく。
本作には金田一の知り合いとして詩人のS・Y先生が登場するが、このS・Y先生はたんなる登場人物に過ぎないのであり、たとえば、『本陣殺人事件』『黒猫亭事件』に登場する作家先生のように記録作家として物語をかくような存在なのではないし、『八つ墓村』のように、みずからが経験した出来事を記録する「辰弥」のような存在であるのでもない。
本作は登場人物が語り手として現れるのではなく、全知全能の語り手が語る物語である。
きざな語り手だなぁ、と思った。
この記事は以上。
*注1
僕が読んだのは次のテキストである。
1974年5月30日初版、改版初版年不明、2014年1月20日改版26版
(この記事での引用はすべてこのテキストからおこなう。)
このテキストの奥付の画像は次。
現在発行されている本テキストは初版ではなく、改版である。そして、書誌情報としては改版年が重要である。しかし、本書の奥付にはそれがしるされていない。「平成7年7月20日 48版発行」というのは、初版最終刷が「48」であるということだろうか。角川文庫の他の作品の奥付には、初版年、改版年、(ほかならぬこの印刷物の)印刷年(および、刷りの数)の3つの情報がしるされているものがある一方で、うえの画像のように、改版年の記載が欠落しているものとがある。
うえの画像の右ページの但し書きの末尾に「(平成八年九月)」としるされているから、おそらく、改版は平成8年(1996年)になされたのであろうと推測されるが、奥付にしるされているものではないから、たしかな書誌情報としてはこの印刷物の改版年は不明のままである。『白と黒』と同様な不備を奥付にもつ角川文庫のテキストはほかにもある。角川文庫の編集部には適切な仕事をしてほしい。
*注2
この章につぎの記述がある。
日本全国にニュー・タウンとよばれる団地が、ぞくぞくと建設されるにしたがって、そこに居住するひとたちの社会心理学というものが、ちかごろ問題になってきている。団地という従来にまったく見られなかったタイプの住居と、そこにおける生活が日本人の社会心理に、どのような影響をおよぼすだろうかということは、これからますます必要になってくる研究課題にちがいない。
(略)
しかし、共同社会といってもかれらはそこで、生活のかてをえているわけではない。大げさにいえばそこはかれらのネグラに過ぎない。朝起きると男の大部分と女の何パーセントかはそこを出て、それぞれちがった職場へ働きにいく。そして、夕方かえってくると、鉄の扉と厚いコンクリートの壁に守られて、外部から遮断された生活のなかに閉じこもることができるのだ。(pp.63-64)
〔蛇足〕
注1にあげた奥付をみると、発行所は「株式会社KADOKAWA」、編集が「角川書店」になっている。発行者の「山下直久」氏は、株式会社KADOKAWAのホームページの記載によると、ブランドカンパニーとしての「角川書店」のブランドカンパニー長であるらしい。(会社の社長が発行者として記載されるのが普通だと思うが、この奥付では社長が発行者になっていない。ここにはねじれがあるようだ。) 「角川書店」はブランドカンパニーなのであり、もはや子会社あるいは事業会社でさえないのだ。子会社であるとしてもひとつの会社であることにかわりはなかった。しかし、会社でなくなった以上、今後図書館などのデータベースに登録されるべき、あるいは、引用時に出典の書誌情報として記載されるべき出版社の名称は「KADOKAWA」になるんだろうなぁ。