■横溝正史『犬神家の一族』(その2)~映画「犬神家の一族」(市川崑監督、1976年版)~
市川崑監督の映画「犬神家の一族」(1976年版)をDVDで視聴した。
出演:石坂浩二、ほか
音楽:大野雄二
監督:市川崑
公開:1976年
僕は金田一シリーズの《映像化史》とでもいいうるものについて今のところ無関心である。
そんな僕が本作を視聴しての感想は・・・
うーん・・・
・・・という感じ。
オープニングのクレジット。
タイトルとスタッフの表示からはじまったオープニングのクレジットが、音楽の流れにあわせて、途中からキャストの表示になる。
音楽とクレジットのあいだのタイミングの合わせかたに制作陣のこだわりを感じたが、肝心の音楽がつぎはぎ的。
あらかじめ決定していたクレジットの尺にモチーフを無理矢理押し込んだようだ。
クレジットの尺のサイズを意識して音楽の各モチーフをつぎはぎ的に結合させた結果なのだとしたら、せっかくの印象的な音楽がもったいない。
1回しか知覚されないことを前提とするのならこれでも良いのかもしれないが、純粋に音楽に着目すると、繰り返しの視聴にたえられない、と思った。
僕が本作を視聴する前に「愛のバラード」のフルコーラス版を繰りかえしきいて、フルコーラス版の自然な音楽的流れになじんでしまっていたせいであるといえなくもないが、このオープニングにおける音楽の、先を急ぎたがる展開には苦笑を禁じえなかった。
本作を再生しはじめて最初期にいだいた感想として、このことをここに正直にしるしておく。
問題の箇所の動画がYoutubeにあがっていたから、ここにはりつけておく。
(クレジットがはじまるのは"2:08"~)
犬神家の一族 - introduction -
http://www.youtube.com/watch?v=-4gOx5mtmmY
うえでのべたように、今の僕は金田一シリーズの《映像化史》には無関心である。
だから、僕は純粋にひとつの独立した映像作品として本作をながめた。
本作の映像の編集について不思議なことをいくつか。
金田一が町の通りに登場したとき、古舘弁護士がそれを隠れてみているようだったが、それはなぜ?
梅子が本を読んでいるところにふすまが倒れてくるとか、柏屋の主人が階段をおりて振り返ったところに奥さんがいるとか、こういうホラー的要素は本当に必要だったのか? まもなく佐武殺しが起こるわけで、その前兆としてこうしたホラー的要素が視聴者を不安にさせる効果はあるにしても、一個一個の出来事としてはすごく不自然なんだよなぁ。
どうもこの映画は犬神佐兵衛の怨念的要素を意識して、いたずらに細部にそうした色彩をあたえすぎたんじゃないか。
うえで「うーん・・・」という感想をのべたが、つまらなかったわけではないし、再度視聴したときも、時間が長いとは感じなかった。
でも、僕はモヤモヤしている。
原作についての知識がなくても理解できるはずの一個の独立した映像作品として本作のテーマがつかみづらいからかもしれない。
それは映画の尺の問題ゆえなのか。
とにかくすっきりしない。
予告篇動画をここにはりつけておく。
犬神家の一族 (1976年版) 予告編
http://www.youtube.com/watch?v=jcILT_lbG-E