新編 膝枕

智に働きたいと思いながら、なんかやってます。

■映画「見えないほどの遠くの空を」をみた。

映画「見えないほどの遠くの空を」をテレビ放送の録画で視聴した。


僕が本作を知ったのは、虎馬氏のブログ「promised land」の記事を拝読したことによる。

・「見えないほどの遠くの空を」(掲載日:2011年6 月13日 (月))

・「見えないほどの遠くの空を 追記」(掲載日:2011年6 月21日 (火))

・「『見えないほどの遠くの空を』から1年」(掲載日:2012年7 月11日 (水))

本作の監督である榎本憲男氏はtwitterもやっており(@chimumu)、テレビ放送の予定をつたえる監督のtweetが虎馬氏によってORTされてきた。ぼくはそのtweetによってテレビ放送のことを知り、すこし手間をかけて録画をした(録画したのは2012年10月7日(日)03時30分からの衛星放送)。

で、視聴した。

* * *

本作はある大学の映研が映画を撮影しているところからはじまる。

その作中映画のタイトルは「ここにいるだけ」。

「ここにいるだけ」の脚本・監督を担当した人物の役名は「高橋賢」。

「ここにいるだけ」という作品のねらいを部員たちに説明する「賢」は「ぼくら世代のリアリティのないリアルというものを表現したい」という。そして、「賢」の説明にたいして、部員たちのあいだで共感できるとかなんとかといったやりとりがなされる。

はっきりいって、僕はこの手の発想、ものいいが好きではない。僕は(僕には全然共感できないなぁ)と思いながら、視聴を続けた。

初見時に作品の後半での物語の展開、その意外性に心を大きく動かされたのは事実だが、それは《深い感動》という表現があてはまるような心の動きかたではなかった。

この記事を書くために本作を何回か視聴し直したが、やはり僕は本作に《深い感動》のようなものは感じていない。

しかし、本作の構成・構想については(よく練られたものだ)という感想をいだいている。

この感想記事ではそういう点についてすこし書いておきたい。

(《深い感動》という表現の使用は、定義しがたい、主観的なものなので、《深い感動》とはなにかという突っ込みはしないでほしい。)

* * *

本作のオープニング:

雲の多い空を画面一面にうつしだす。カメラは空からそのまま地上に視野をおろしてきて、一本の木の根元にすわるひと組の男女を映し出す。

本作のエンディング:

カメラは木の根元に座る一人の男をうつしだす。その男が立ちあがり、歩き出す。その後、カメラは徐々に視野を上に向け、画面一面に空を映し出す。

これは、ちょうど、

(さきの見えない世界をみすえて)《いま・ここ》を飛び出すことへの志向

     ↓

《いま・ここ》という小さな世界での幸せへの志向

     ↓

《いま・ここ》を飛び出すことへの志向への回帰

という作中映画「ここにいるだけ」の物語の推移(それは、「賢」の思いと「莉沙」の思い、二人の思いの相互作用、およびその相互作用の結果でもある)とかさなりあう。

まさに「見えないほどの遠くの空を」見続けてほしいという「莉沙」の願いを受けとめた「賢」の決意が本作のエンディングに描き出されるのであり、本作のエンディングの描写の意味はオープニングと対称をなすカメラの動きによって対比的に浮き彫りになる。

本作のこの演出、みごとだと思った。

(「《いま・ここ》を飛び出すこと」というのは作中で語られる言葉ではなく、僕が乱暴にまとめた表現なので、精密さという点で不適切であるとは思う。が、いまはこの点で厳密さを自分に課すのは僕自身がしんどいので、いまはこんな感じでまとめておく。言葉をもっと増やしていいかえるなら、「もっとめちゃくちゃであること」「イヤな体験もいっぱいすること」「大きなチャンスもあれば、いきなりひっくり返されることもある場所にいること」・・・などということになる。本作のタイトルの表現を借りて、「誰もみたことのない世界、見えないもの、手で触れられないもののある世界に目を向け続けること、それほどの遠くを見続けること」ということもできるだろう。)

* * *

「莉沙」は「(双子の妹である)洋子」として「ここにいるだけ」の最後のシーンの撮影にのぞみ、監督の「OK」がでたあと、なにも言わずにその場を立ち去る。「莉沙」のあとを「賢」は追いかける。「莉沙」の真意をききながら、「賢」と「莉沙」は一緒に林のなかをあるくのだが、いつのまにか「賢」と「莉沙」はあの木のしたに戻って会話をしている。ほかに人は誰もいない。

自分の願いを「賢」につたえきった「莉沙」が「賢」にむかっていうセリフ。

「じゃあね。今度はついてこないでね」

このセリフのあと「莉沙」はひとりさっていき、「賢」は「莉沙」をおいかけず、ひとり木のしたにたちづづける。これが「莉沙」と「賢」の最後の別れになる。

この演出、みごとだと思った。

しかも、エンディングで木のしたに座っていた「賢」がたちあがり、歩き出すというのは、「莉沙」との最後の別れのこのシーンの、時間・空間的な続きにあたるだろう。

立ち上がり、歩き始めた「賢」。そして、画面いっぱいの空。「見えないほどの遠くの空を」。

みごとだなぁ。

* * *

恋人同士ではなかったし、《好き》という気持ちを伝えあったことがなかったとしても、じつは密かに《好き》(ここでの《好き》の内実、とくに「莉沙」における《好き》の内実は単純なものではない)という感情をおたがいにもっていた「莉沙」と「賢」。

「賢」は自分の「莉沙」への思いを作中映画「ここにいるだけ」にこめた。「ここにいるだけ」は「賢」にとって「莉沙」へのラブレターでもあったのだ。監督として「賢」は「莉沙」に自分の映画のねらいを説明する手紙を書くのだが、その手紙を読まずに「莉沙」は死んでしまう。

自分自身が別の生き方をしたいと思っている最中でもあった「莉沙」は、「ここにいるだけ」の最後のシーンに異議をとなえ、具体的な別案をもたないながらも、「賢」に話し合いを求め、つよくあたる。「莉沙」としては、「具体的には今すぐはわからない」、でも、「すごく大事なことのような気がする」という漠然とした違和感があるのだ。「莉沙」はこの違和感を、台本に逆らって勝手にしゃべった最後のシーンでのセリフ「だけど、それじゃあまりに悲しくない?」で「賢」に突きつけてみせた。しかし、「莉沙」はそれ以上の自分の違和感の正体を「賢」に伝えることはできなかった。

で、一年後、「ここにいるだけ」の最後のワンシーンの撮影のし直しの時。

「莉沙」は「賢」の台本を無視し、「だけど、私はそうは思わない…」と語り出す。

カメラを媒介にしつつも、「賢」の目をまっすぐにみすえて、「賢」への思いをかたりつづける。

このとき「賢」は驚きながらも、カメラを回し続ける。

生前「賢」に伝えられなかった思いを語り終えた「莉沙」は、「賢」の台本通りにうなずく。(ここでの動きは「うなずく」というより、「うつむく」といったほうが妥当だろうなぁ。)

そして、「賢」の「カット。OK」というセリフ。

ここ、いいシーンだなぁ。

仕事をやめたあと、古レコード屋の店先で「莉沙」の妹の「洋子」にであった「賢」は、喫茶店で「洋子」に映画「ここにいるだけ」への出演を依頼する。

「洋子さん、これにでてもらえませんか? 最後のセリフ、莉沙の提案で書きかえたので、ぜひ」

この展開は、「ひとつの独立した映画の内部」での一人の人間の生き方の変遷の描き方として、実に秀逸だと思った。

(「ひとつの独立した映画の内部」とわざわざつけ加えたのは、リアルな世界では「今後の予定もないのに仕事をやめる」というのは推奨される行動ではないと思うから。ここで秀逸だというのは、生き方の変遷の描写そのものに説得力がある、という意味である。)

* * *

「光浦」が「賢」に「莉沙」の死を電話でつたえる場面でのこと。

「賢」の机のうえのモニターには「ここにいるだけ」の最後のシーンが映し出されている。

光浦の「はねられた。酔っぱらい運転だ」というセリフをうけて、賢はモニターに視線をむけ、動きがとまる。そのモニターのなかの「莉沙」も静止画像になり、動きがとまる。

「賢」と「莉沙」の時間がとまった瞬間だ。

こういう細かな演出もみごとだと思う。

* * *

役者の演技についていえば。

双子の姉妹としての「杉崎莉沙」と「杉崎洋子」を演じた「岡本奈月」。

気が強く、言葉づかいも荒い「莉沙」と、まじめで、保守的で、お嬢様的な「洋子」とがきちんと演じわけられているなぁ、と思った。

* * *

「光浦」と「莉沙」が劇場から出てきたところに、「賢」は遭遇する。「莉沙」は「賢」の存在に気づくが、そのまま「光浦」といっしょに歩き続け、「賢」の視野から消えるというシーンがある。

このときの「莉沙」のあのまなざしは、「莉沙」が「賢」につたえたかったことに根をもっているんだなぁ、と気づいたのは、本作の初見を終え、つぎのYouTube動画をみたときのことだ。

◆見えないほどの遠くの空を 予告編

http://www.youtube.com/watch?v=FXq5LIZcwfU

初見後にこの予告編をみて思ったことは、もうひとつ。

作中映画「ここにいるだけ」の最後のシーンで、「莉沙」が監督である「賢」の指示通りにうなずくことをせず、「だけど、それじゃあまりに悲しくない?」という。ちょうどそこで雨が降り始め、撮影は中断。このとき「莉沙」は笑うんだよなぁ。ふっきれたようなこの笑顔が美しい。(個人的には、このときの彼女の表情がすごく好きだ。)

自分の違和感を執拗に「賢」に伝えようとした「莉沙」の、(してやったり)的な思いがあるのかなぁ、ということを思った。

何度か本作を視聴し直したいま思うのは・・・

自分の部屋で「賢」がモニターに映し出す「莉沙」はいつもこのときの表情の彼女なんだよなぁ。

まぁ、「ここにいるだけ」の他のシーンは本作に出てこないから、これ以外の箇所を本作に登場させるのもむずかしいことだろう、だから、このシーンだけを登場させるのは消去法的に当然の選択だろうとは思うのだが、でも、「賢」は「莉沙」のことが、しかも、こんなに素敵な笑顔の「莉沙」のことが好きだったんだろうなぁ、と思わせられて、その都度(いいなぁ)と正直に思う。

「莉沙」の死後1年で気持ちを整理し新しい彼女をつくった「光浦」について、「1年・・・ 1年で忘れられたのか・・・」とつぶやく「賢」だ。

この1年で、「莉沙」と恋人同士であった「光浦」は「莉沙」への思いを整理したのにたいして、「賢」はまだまだ「莉沙」のことを忘れることができずにいる。

ぼくはこういう「賢」が好きだなぁ。

1年後、「莉沙」は「賢」にだけ見え、会話のできる存在として「賢」のまえに姿をあらわす。

こういう展開、すごくいいと思う。

* * *

物語の展開そのものとは関わらないかもしれないが、「ここにいるだけ」の最後のシーンの撮影。

「シーン58 カット7 テイク1」(「莉沙」との撮影時)

「シーン58 カット7 テイク2」(「洋子」との撮影時)

こういうところ、丁寧な作りをしているなぁ、とおもった。

* * *

本作についての感想の記述は以上。