新編 膝枕

智に働きたいと思いながら、なんかやってます。

■木村多江(著)『かかと』(講談社)をよんだ。

木村多江初めての書き下ろしエッセイ」(単行本の帯より引用)、『かかと』(講談社)を読んだ。


まずは出版社のHPにあるこの本の紹介ページへのリンクを提供しよう。

かかと 木村多江 講談社
http://shop.kodansha.jp/bc2_bc/search_view.jsp?b=2161788

表紙
Kimura_kakato_1


このページには以下の書誌データ、および、内容紹介文が記載されている。

かかと
著者: 木村多江

発行年月日:2010/04/01
サイズ:四六判
ページ数:142
ISBN:978-4-06-216178-7

定価(税込):1,365円

内容紹介
わたしって、役者?女?妻?娘?母?
えっ、女優?……まさか!?
木村多江初めての書き下ろしエッセイ

ストレスがたまらないよう毎日リセットして、新しい朝を迎えたい。そのために、前の日の晩は、お風呂に入ったら“頭ごと浸かって”身体をゆるめている。まるで自分が羊水のなかにいるようで、気分もゆるんでいく。――<本文より>

帯はこんな感じ。
Kimura_kakato_2


本書にかんするインタビュー記事はここ。

楽天ブックス|著者インタビュー - 木村多江さん『かかと』


これはおまけ。

【楽天市場】木村多江さん「女優とかかと」-有名人・芸能人の愛用品紹介-


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彼女の事務所のHPにもエッセイ的文章があるので、読者の皆様にはそちらもあわせてご覧いただきたいと思う。

木村多江 色の時感 - BLOG - YOUGO OFFICE
http://www.yougooffice.com/blog/kimura/


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さて、僕がこの記事でやろうとするのは、彼女の演技観があらわれている箇所を引用・紹介し、彼女の言葉から僕が感じたことを書き留めておくことだけである。読者の皆様には、ぜひ、本書を直接手にとって、中身をお読みいただきたいと思う。


目次はつぎのとおり。

 はじめに
 一章 役者と女優の日々
 二章 女の日々
 三章 人間の日々
 おわりに


どうも彼女は自分の容姿にコンプレックスを抱いていたようで、第一章のはじめでそれにまつわるエピソードがいくつか披露されるのだが、そのあとに彼女のつぎの文章がある。
 良さそうなスタイルに見えるように、いい顔に見えるように努力した。実際にわたしを助けてくれたのは、ちょっとした身のこなしや、仕草、表情だ。(p.16)

バス停にいる人たちを観察していたこともあるらしいが、その箇所の引用は割愛して…、

 こうした意味合いにおいても、戯曲の朗読タイムの時間を無駄にはできなかった。スピーカーから流れてくる声を聞くことで、自分の感情表現がどのように伝わるかを知ることができたし、ちょっとした声音の変化で、がらりと雰囲気が変わることにも気づかされた。(p.29)

ここまでは役者さんなら誰でもやることだろうから、とくに驚きはない。


しかし、僕がとりわけすごいと思ったのはつぎ。

 ずっと舞台という場にこだわってきた。
 でも、役者が、とある場所で、とある人の人生を生きるものだと仮定すれば、その場所が舞台だろうと、テレビだろうと、関係ないのかもしれない、と思うようになった。
 結局はどんな場所で演じていようとも、どんなに小さな役であろうとも、その役にはその人の人生がある。(p.43)
 でも、死んでのち、それらが怨念にまでなったのが貞子である。なぜ、そんなことになるのか。そこまでいくには、よっぽどひどいことをされたんだ。
 だから、ただ怖いだけの芝居で終わらせたくはなかった。
 貞子という女性の悲しみを表現したかった。(p.44)


わかるかな。これ。


個人としての人間にも歴史があって、いろんな人との関わりの中でこんにちの性格が作り出されてきた。

人間の社会および個々の人間はあまりにも複雑な系であるから、ニュートン力学的なイメージで単純にいうことはできないにしても、ある人間の現在の状態を見れば、その人がどんな人生を歩んできたか、おおよそはわかってしまう。明確に言語化するのは難しいにしても、われわれは日常生活の中で周囲の人たちの来し方をどこかで感じ取ってしまっている。ここまでは日常の経験的実感として同意していただけると思う。

で、感じ取るといっても、なにもないところからはなにも感じ取ることはできないわけであり、このときの手がかりとなるものが、その人の「身のこなし」「仕草」「表情」なのだ。つまるところは、目に見える体の動きである。そして、耳にきこえる声(しゃべり方…など)…。ひらたくいえは、目で見たり、耳で聞いたりすることのできる、身体の動きである。そうした身体の動を通じて、我々はその人がどんな人であるか、感じ取っているわけだ。


で、役者はそんな身体の動きによって人間の感情を表現していく…人間の人生を表現していく。上に引用した彼女の言葉で言えば、「とある場所で、とある人の人生を生きる」。


どうも、「木村多江」はこの当たり前すぎることを明確に自覚しているようなのだ。


このことを知ったことが、僕が本書を読んでの一番の収穫であった。


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なお、不遜ながら、僕は木村多江の言葉をこのブログの記事の中で引用したことがある。

 内部リンク:■映画「バースデー・ウェディング」(その1)~木村多江の言葉~

この記事で引用したのは、映画「バースデー・ウェディング」のDVDにおさめられた特典映像中の彼女の言葉である。

そこにみられた彼女の発言の内容と重なりあうように思われる記述が本書にはあるので、引用が多くなってしまい恐縮だが、もう一箇所本書から彼女の文章を引用しておく。

 だけど、100パーセント心が泣いていたら、やっぱり涙は出るわけで、その役の心が泣いていれば、涙が流れなくても、伝わるものは伝わる。(pp.48-49)

涙が出るような感情というのは、涙がなくても伝わるのである。さきに、身体の動きによって人間の感情は表現されると僕は書いたが、その身体の動きというのには、ごくごく微細な身体の動き(しゃべり方を含む)までふくむのだろう。

「涙が流れるような感情」を表現する身体の動きの構成要素として「涙が実際に流れる」ということは必須のものではないのだ。


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「あとがき」では、出版作業にかかわった人に対する感謝の意をその固有名をあげてあらわしているが、本文中では、ただひとりの俳優の名をのぞいて、固有名は出てこない。すなわち、それ以外の他の俳優、監督をはじめとするドラマ・映画の制作スタッフの固有名はまったくでてこない。そのただひとつの例外が「深浦加奈子」である。

 わたしが大好きで尊敬してやまない人がいる。
 その人は、女優・深浦加奈子さん。2008年、48歳、病でこの世を去った。
 わたしが加奈子さんを最初に見たのは舞台だった。あのときの衝撃はいまも忘れない。加奈子さんが登場した瞬間、わたしの目は釘付けとなった。
 途中からはもう、加奈子さんの芝居しか見えなくなった。
 わたしは、"恋に落ちた"のだ。
 テレビで彼女を見るたびに、彼女のお芝居すべてが、わたしの心をわしづかみにし、ふるわせるのだった。(p.116)

それにつづけて、「そして、やっとの共演。/わたしは撮影の何日目かで、ついに告白した」(pp.116-117)とかかれている。


木村多江という俳優がどんな俳優にひかれたのか、ということは、木村多江のことをしるために重要なことだと僕は思っている。

僕のこの記事をおよみになった皆様には、ぜひこの箇所は本書を手にとって、実際にお読みいただきたいとおもう。


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とりとめのないことを書き連ねてきたが、本書の内容とかさなることを、木村多江はラジオ番組の中でしゃべっている。

その番組はPodcastで聞くことができるので、最後に、その場所をここにしるして、この記事をおえることにしよう。

…とおもったら、その日の放送の分はもうダウンロードできないらしい。(5月7日のだからなぁ。残念。)

そこで、僕がこの番組について書いたこのブログの記事へのリンクをはってお茶を濁すことにした。

 内部リンク:■木村多江 in 大竹まことゴールデンラジオ♪(5月7日(金)掲載)