新編 膝枕

智に働きたいと思いながら、なんかやってます。

■「極限推理コロシアム」をみた。

TVドラマ「極限推理コロシアム」のDVDをみた。
 出演:綾瀬はるか(役名:篠崎亜美)、ほか

 テレビ放送2004年5月3日~5月6日、30分×4。(ウィキペディア極限推理コロシアム」の項の記述による)

 「ディレクターズカット版」とかかれた上・下の2枚(各60分)。


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作品本体については批判的なことを書くので、その前にまずは「綾瀬はるか♪」の話題を少々。


いろんな表情の「綾瀬はるか」がいた♪♪

ツンツンした綾瀬はるか

ニコッとした綾瀬はるか

そのほかいっぱいの綾瀬はるか

綾瀬はるかに看病してもらいたいなぁ♪とおもった♪

すぐ元気になっちゃうよ♪

いや、元気にならない方がもっとたくさん綾瀬はるかに近くにいてもらえるのかなぁ♪


* * *



さて、僕がこの作品を見たのは「綾瀬はるか」が出演しているからである。「綾瀬はるか」がいなかったら、およそ手にとることさえなかったはずの作品だ。なぜなら、僕は物語の設定そのものに拒絶反応を示すから。


ストーリーをここで紹介するなんてことはしない。一応、本作は推理ものであるということもあるが、はっきりいって紹介するほどの内容でもない。

設定があり得るとかあり得ないとかいう議論はどうでもいい。

僕は「この設定を所与として素直にうけいれよう」という心づもりで本作を視聴した(つもりである)。



前置きはこのぐらいにして、さっそく感想を述べる。


登場人物たちが説明しすぎ。

(映像を見ればわかるだろ!!)という箇所で、(これでもか!!)とおもうぐらい、登場人物が注釈をつけていく。しかも的外れ。論理的整合性のない思い込み発言。一応、そうした注釈の中には的確なものもあって、それが手がかりになって、正しい結論へといたる推理が展開していくのだけれど。

これは「お子ちゃま」向けのドラマなのか? それにしては人がどんどん死んでいくから教育上よろしくないとおもうが、ある程度の大人を対象にしているのだとしたら必要ないぐらい、いちいちの行動、セリフに登場人物が意義づけを与えていく。

いや、むしろ、登場人物が意義づけを与えないと物語が進行しないぐらい、一つ一つの行動とセリフが意味不明なのだ。

見ていてつらくなった。


綾瀬はるか」が出ていなかったら、僕は本作を手にとらなかったはずだ、というのは上に書いたとおり。

本作のような設定をそもそもの出発点において僕は受け付けないからであるが、その内実を明確に語るとすれば、推理ものでは人が死ぬから、という一点にいきつく。虚構的な設定で人が死んでいく様子を描くのは悪趣味としか思えない。これは僕の個人的な「嗜好」の問題であることは承知の上であるが、推理小説、サスペンスというジャンル自体が、どうも僕の肌に合わないのだ。

(もちろん、虚構の上に人が死ぬにしても、そういう設定の物語を通じてしか表現できないものもあるであろうことには、十分に理解を示したい。しかし、そういうことなしに、たんに人が死ぬ描写をあたえるものがあることもまた、けっして否定できない。)


うえで「見ていてつらくなった」と書いたのは、このジャンルの作品を受け付けないという、僕個人のそもそもの嗜好の問題とは別に、《人間の行動の描き方》があまりにもお粗末だったから。登場人物のプロフィールと言動が合致しない。空間的状況と人間の言動(知覚)が合致しない。

それぞれ、ひとつずつ取り上げておこう。

まず前者。

「刑事を14年やってきた」と自称する人物が登場するのだが、そう自称する人間がある人物の殺され方について、「拳銃によるもの」という。それに対して別の人間が「それはあり得ない」という。その理由は、銃声がなかった、火薬のにおいがしなかったの2点。どうして「刑事」がそんな初歩的なことを見逃すのだ?

後者。

天井裏で主役の男が犯人(らしき人物)と接触したときのこと。本が楽に読めるほどの明るさではないにしても、人の顔がわかるぐらいの明るさではある。だからこそ、そのあとで篠崎亜美の顔が目に入ったのだ。しかも、彼は犯人(らしき人物)と接触するまでしばらく天井裏にいたのだから、あの空間的状況に目は慣れていたはず。なのに、手で触れた感じから「男だった」ということしかわからないというのは、あまりにも観察力なさ過ぎ。しかも、彼は絵を得意とする人間だ。


こうしたお粗末さを具体的に例証しようとするとすれば、もっと細かく本作のストーリーに言及せざるを得なくなるのだが、推理ものとしての本作にかんして、そういうことをするのは適切ではないだろう。


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お粗末さの例証にかかわるストーリー紹介はしないが、僕のお勉強の観点から興味深いことがあったので、それだけ記録しておく。この点に関しては、ストーリーの紹介(=ネタバレ)と同義にならざるをえないが、しかたない。

(本作を未見の方は、ここから先は読まないでくださいね)




主催者が「犯人は二人いる」といった。

登場人物たちは、夏の館、冬の館それぞれに一人ずつ犯人がいると思い込んだ。しかし、よくよく振り返ってみると、主催者の言葉は《夏の館には犯人が一人もいない》という可能性を排除していない(さらにいえばこの言葉は、《冬の館には犯人が一人もいない》ということ、つまりは《犯人は二人とも夏の館にいる》という可能性も排除していない)。

目の前にある状況を、夏の館、冬の館のそれぞれに与えられたヒントとあわせてかんがえることで、二人の犯人を正しく言い当てた……

で、ここで大事なのは、ある言葉があるとして、それをあとになって冷静に考え直す能力があるか否か、ということである。

反省する能力といいかえてもよいと思う。適切な言語運用能力、読解力の問題とからみあう。

ある一つの判断にいたった経緯を解きほぐして振り返る能力がなければ、その判断を修正して、正しい結論に到達することはできない。

(本作において、推理の仕掛けがうまくできあがっていたか否か、というのはまた別問題である。この点について考え直す元気は僕にはない。そもそも僕の肌に合わない。)

ここには、現実世界についての事実的な知識が背景にあるのはもちろんだが、事件の展開の中で見聞きしたことを《あとになって》振り返る能力も必要だ。

それがなければ推理ものは成立しないということ、推理ものという特殊な設定をはなれるとして、人間の適切な行動は成立しないということを、あらためて感じた。


それにしても、「その状況があったら、どうして、その時点でこれこれの現場検証をしないのか?」と感じて、もどかしかった。


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蛇足的に、本作のメッセージ的なものに言及しておこう。

どうやら「日々生きていることの大切さをかみしめる」といったことを本作ではいいたかったらしいのだが(夏の館の一室で主役の男と篠崎亜美がそんなことを語り合ったし、最後のシーンの公園でもそれに類することを篠崎亜美(のはずだよね)がいった)、あの程度の設定でそんな大それた結論を引き出すってこと自体がお子ちゃまだ、と作品末尾でだめ押しを食らった。


こんなことを書いていると、僕は背後から刺されそうだ…ね…


* * *



さてさて、繰り返しになるが、僕が本作を見たのは「綾瀬はるか」が目当てであった。


 綾・瀬・は・る・か♪


綾瀬はるかに萌え~」という目的は十分に達せられたと思う。

シリアスな表情の綾瀬はるかもいいが、僕はやっぱり笑ったときの彼女が一番好きだ。

とくに最後の公園でみせる笑顔♪ え・が・お♪

だ・い・す・き♪ としかいいようがないよ♪

あ・や・せ・は・る・か♪


というわけで、デレデレした記述で本記事は終了。