新編 膝枕

智に働きたいと思いながら、なんかやってます。

■映画「バースデー・ウェディング」(その4)~桜貝~

本稿(その4)では、作中にあらわれる《桜貝》に的をしぼって、分析的に語ってみようと思う。

【本稿には本作品の内容に関する詳細な記述が含まれます。私自身は本稿を 《作品分析》 のひとつの試案として執筆したつもりでおりますが、《作品分析》 が 《ネタバレ》 と同義になる可能性を否定することもできません。本作を未見の方、本作を予備的知識なしに視聴したいと希望する方には、その点をふまえてこの先をお読みになることをお願いしたいと思います。】

* * *



出来事の時系列にそっていえば、本作で桜貝が一番最初に登場するのは、紀美子27歳、通也30歳のときのことだ(《回想1(A)》)。海岸で紀美子が桜貝を見つける。そして、通也につぎのようにいう。

紀美子 「知ってる? 桜貝って、対(つい)で見つけると幸せになれるんだって。」
(DVD本編“09:36”)


でも、そのときに紀美子が見つけることができたのは1枚だけだ。

「1枚しか桜貝を見つけられなかった」ということは、そのときに紀美子が太陽にかざす桜貝が1枚だけであること、そして、千晴(5歳)をつれて冬の海に行ったとき(《第一日(I)》)に、紀美子がコートのポケットから取り出す小瓶の中に1枚しか桜貝がはいっていないことからわかる。

しかし、《第一日(I)》の海岸で5歳の千晴がハッピーバースデーの歌のあとに紀美子に「プレゼントもあるの」「きれいでしょ」の言葉とともに差し出すのが、1枚の桜貝である。ここで桜貝が対(つい)になる。その日の帰り道、千晴をおぶった通也のバックからぶらさがっているのが、2枚の桜貝のはいった小瓶である。

この日に桜貝が対(つい)になったわけだが、紀美子の命が春までもたないことにはかわりはない。

では、紀美子の余命が短いから不幸せなのかといえば、そんな見方をすること自体が不当であると私は考える。

人間の経験する出来事について《幸せ・不幸せ》の尺度で語ること、とりわけ、幸せでなければ不幸せである、あるいはその逆である、といった二者択一でかたるのは単純すぎる。人間の生活およびそれに対する感情はそんなひとつの尺度の上を、一方の極から一方の極へと動くものではない。

むしろ大事なのは、紀美子と千晴、2人が見つけた2枚の桜貝がその後つねにビデオカメラにぶらさがり続けているということ、そして、海岸で紀美子が「ね、そのなかに、(幸せが)あるでしょ」といったように、そのビデオカメラの中にうつしだされるのが、5歳の千晴の成長した姿であり、克とともに結婚式にのぞむ21歳の千晴のしあわせな姿である、ということだ。


そして、最後のシーン(《第四日(IV)》)。

千晴、克、その娘の愛、3人が海岸で遊んでいる。そこで母と娘、それぞれが1枚ずつ桜貝を見つけ、見事に2枚の桜貝がそろう。

…わかるかなぁ。ここがいかに幸せなシーンであることか…


紀美子が桜貝の話題を出すのは、紀美子27歳の時。母親になった千晴が娘の愛とともに桜貝を見つけて対(つい)になるのが、千晴27歳の時。

桜貝はあくまでも幸せの象徴で、幸せの実体ではないにしても、千晴27歳のときにその幸せが名実ともにそろうのだ。


さらに、ここで娘の愛が6歳であること、季節が春であることも、また重要である。

ビデオレターで紀美子はこんなことをいっている。

「小学校の入学式、一緒に出られなくて、ごめんね。」
「そのとき、いつか、あなたが母親になったとき、あなたの子どもに、お母さんがはたせなかったぶん、お母さんがちいちゃんと一緒にできなかったことを、たくさん、たくさん、してあげてね。」


そして、ビデオレターを作成する日。海からの帰り道での紀美子と通也の会話。

紀美子 「春になれば小学生ね。」
通也 「うん。」
紀美子 「ランドセルを背負った千晴が、この道を歩くのね。」

紀美子 「見たかったなぁ。」


紀美子は千晴5歳の年までは千晴と一緒にいることができた。でも、春の小学校入学までは一緒にいることができなかった。一緒にいたかったけど、一緒にいてあげることができなかった。そんな紀美子が娘の千晴に望んだことが、最後のシーンに実現されているのである。

(最後のシーンが、愛の6歳の春、すなわち、小学校の入学式もすんだ時期に設定されていることに注目してほしい。)

ここがいかに幸せなシーンであるか、これによってさらにダメ押し的に強調されるわけだ。


ただし、ここでの、「27歳」とか「6歳の春」とかということは、作品本編では明らかにされていない。

作品本編でわかるのは、作品冒頭で紀美子、通也、千晴の3人が海岸で遊んだこと、それと同じシチュエーションが作品末尾で千晴、克、愛の3人によって繰り返されることだけである。これだけでも、紀美子の願いが実現されていること、千晴が幸せであることが十分に伝わってくる。そこに登場人物の年齢の詳細な紹介など必要ない。年齢がわからなくてもふたつのシチュエーションに類似性があたえられるだけで十分に感動的だ。ましてや、千晴、克、愛の3人の海では桜貝が対(つい)になるのである。

そこに登場人物の年齢が加わると……もう涙が止まらなくなる。


* * *



さて、以上は、作品本編(および、特典映像からしることのできる年齢と場面の設定)に根拠を求めることができることだとすれば、つぎのは私の妄想に属することになるのだが、ひとつ追加で語っておこうと思う。


結婚式前日のこと。通也が外出してしまい、千晴がひとりで洗い物をしている。食器をフキンでふくときに千晴が目をとめるのが、1個の茶碗。その絵柄がまさに2枚の桜貝なのだ(ただし、桜貝であると断定することはできない。だが、桜貝を思わせる形状のピンク色が対で並んでいるのは確かなことだ)。

この茶碗は、さっき千晴と通也がテーブルで鍋を食べているときに、千晴の手前にあったものだ。まぁ、千晴がそれをずっとつかっていて、結婚後は実家に置いていくものだとすれば、愛着のあるものとの別れであるがゆえに、思い出深くもあって、それをじっとみつめた、といえないこともない。しかし、この茶碗を千晴が食器棚に両手でそっとしまうところを、本作が丁寧にうつしだしているところからみて、千晴にとって日常の中に完全に埋没してしまうほど軽いものではないだろうことも、容易に推測できる。

この茶碗がいかなる履歴をもつものであるのか、ということは、この作品を見るものに、いろいろな空想をかき立てるものだと思う。作中に細かな描写がないがゆえに、各人のいだく空想は根拠のうすいものになるにしても。したがって、有効な議論の対象にしえないとしても。

(この稿、つづく)