■「15の言葉」~ブタネコさんへの返信~
ブタネコさま
「15の言葉」(掲載日:2016年8月1日)を拝読しました。
すぐにコメントをお送りすることを一度は考えましたが、事情があってそれを躊躇して、時機を逸し、また、時間がたつにつれて、言い訳を含め、お伝えしたいことが長くなってきたので、それをここにひとつの記事としてまとめることにしました。レスポンスが遅れてしまい、申し訳ありません。
まず、ブタネコさんの記事のタイトルをひとめみて、僕は、なぜ今になってこれを? と思いました。ブタネコさんはなにか思うことがあったのかな? 何を思ったんだろう? と。
ブタネコさんがこの記事のなかで次のように書かれているのを見て、ブタネコさんは僕のことを言ってくれているのだと感じました。僕のところを話し相手として誘ってくれているのだと思いました。
この曲を聴いて「あれ?」とか「おや?」とか感じた人とはたぶん私は仲良くなれる。
「あ、これって映画『*****』のエンディングの曲じゃね?」
そうタイトルまで言えた人とは私は熱く語り合えると信じている。
というのも、僕が伏せ字の映画のタイトルがすぐにわかる人間であることを、ブタネコさんはきっとご存知であると思うからです。
僕が「15の言葉」によって「あれ?」「おや?」以上に大きく心が揺れ動き、かつ、単に映画のタイトルが言えること以上の思い入れをもつ人間であることは、僕の過去のブログ記事から証明できるのではないかと思っています。
僕は問題の映画についてのブタネコさんの感想記事「半分の月がのぼる空」(掲載日:2010年12月30日)に刺激をうけて、すぐにこの映画をDVDでみました。感動しすぎて、僕はこの映画の詳細な感想記事をブログに掲載しました。次の3つの記事です。
■映画「半分の月がのぼる空」をみた。~予告編~(感想文・その1) 掲載日:2011年01月17日
■映画「半分の月がのぼる空」をみた。~前編~(感想文・その2) 掲載日:2011年02月15日
■映画「半分の月がのぼる空」をみた。~後編~(感想文・その3) 掲載日:2011年02月16日
「その3」の末尾で僕は「謝辞」としてブタネコさんのことを書きました。ブタネコさんは、いつものようにシンプルに、ひとこと「テレます。^^」とコメントをくださいましたね。 それに僕は次のコメントをおかえししました。
《よい作品のご紹介に感謝》をくちさきだけではないかたちで表明するには、まじめな感想記事を書かなければならない、と思ってまとめたのがこの記事です。
今後もよい作品のご紹介をお願いいたします。
僕はこの映画で使われた「15の言葉」が大好きです。この歌はこの映画にとって欠くことのできない重要な要素であると思ったので、僕は上述した感想記事の導入部で映画情報の一部として「15の言葉」の作詞・作曲、編曲、プロデューサーの名前まで書きました。今でも僕は「15の言葉」をことあるごとにきいています。
このようなわけで、僕はブタネコさんの「15の言葉」の記事を読んで、自分が話し相手に呼ばれているように感じました。ブタネコさんにはなにか語りたいことがあるのだ、と思いました。でも、すぐにコメントをおくるのを躊躇する事情がありました。躊躇する事情というのは次のことです。
上述した僕の感想記事には訂正を要する明確な間違いがあります。また、執筆時には遠慮して明らかにしなかったこの映画の不備な箇所についても、今なら言及してもよいのではないか、とすこし考えをあらためてもいます。記事掲載から5年以上たった今、はやく書き直さなければいけないと思いながら、ずっと放置していることが僕は気になりつづけています。
書き直しが必要だと思いながらも、いざそれに着手することができておらず、せっかくのブタネコさんからの《熱く語り合いたい》というお誘いに即座にこたえる余裕もないのに、単純に「その映画のタイトルわかります。熱く語り合えますね。」とコメントをおくるのは軽薄なようで、ブタネコさんに申し訳ないと思いました。口先だけのことを一番嫌うのがブタネコさんであると僕は考えているからです。そして、僕がブタネコさんについてそう考えているからこそ、僕はブタネコさんに感謝の気持ちを込めて、映画「半分の月がのぼる空」について上述のような詳細な感想記事をまとめたのです。
「熱く語り合いたいのですが、いまは精神的な余裕がないので、いますぐの語り合いはご容赦ください。」と素直に言おうかとも考えましたが、結局は、やはり、コメントをおくるのを見送りました。
コメントをおくるのは見送りましたが、僕はブタネコさんの記事「15の言葉」を拝読してから、あらためて「15の言葉」を何度も何度もききかえしました。ときに口笛にもきこえる音色の旋律がまじりながら、行進曲風のリズムが曲の進行にあわせてどんどん盛り上がっていくこの曲のオーケストレーションが僕はすごく好きです。歌詞もメロディも歌い手の声色も好きです。あらためて歌詞をじっくりと読み直しました。
さて、ブタネコさんの「15の言葉」を拝読後、しばらくしてから、僕は「半分の月がのぼる空」の原作を読みました。文春文庫に収録されたリメイク版のほうです。原作に良い感想をもったら、それをブタネコさんにコメントで送ろうと思いました。それをもとにブタネコさんと少しお話ができるかもしれないと思ったのです。原作はとても良い作品でした。だから、この作家の別の作品も読みました。それも良い作品でした。
原作を読み、ブタネコさんとお話をする口実はできましたが、ブタネコさんのブログの更新がこのところ滞っているのが気になりました。ブタネコさんのブログが再開したら、近況報告の挨拶をかねて、次のようなコメントを「15の言葉」の記事におくろうと思っていました。いま考えをあらため、ブタネコさんのブログにおくるつもりでいたコメントを以下にしるすことにしました。
こんにちは。
僕はこの歌にも映画にも強い思い入れと明確な記憶があります。映画のタイトルは即答できます。「仲良くなれる」「熱く語り合える」というブタネコさんのお言葉、たいへん光栄です。
僕もその映画の詳細な感想記事をブログに掲載したことのある人間ですから、たくさん語れるのですが、実は僕の過去記事には間違いがいくつかあります。また、掲載当時は遠慮して言及しなかったこともあります。いくつかの箇所を書きなおす必要をだいぶ前から感じながら、それがなかなかできずにいます。熱く語り合うのはしばらくあとにお願いしたいところです。
ブタネコさんのこの記事を読んで、ふと気になり、映画の原作を読みました。文春文庫におさめられた4冊です。原作もとても良い作品でした。この作家のほかの作品も読みました。それもとても良い作品でした。橋本紡は良い作家ですね。良い作品と良い作家に触れるきっかけを与えてくださり、ありがとうございます。
今後も良作のご紹介、よろしくお願いします。
では、この返信はこのあたりで。
■横溝正史シリーズ「獄門島」の復刻台本
2015年2月に刊行が始まった「横溝正史&金田一耕助シリーズDVDコレクション」(全55巻、朝日新聞出版)を僕は購読している。
第25巻まで購入し、全部の応募券をはりつけて送ると、全員もらえるのが次の台本(復刻版)。
きょう届いていた。
で、久しぶりのブログ書き。
* * *
1977年に放送された作品の台本である。
ぱらぱらっとして気づくのは…
なんか綺麗… 活字部分はオフセット印刷用にコンピュータ組版されている…
罫線だけは、輪郭をわざとギザギザにして、古いものっぽく作ってあるが…
未使用の台本を探し出して、それの各ページを写真にとったものではないのか…
ちょっと残念。さすがに未使用の美品は残存していないか。
レイアウトとか、セリフの文字情報とかは、たぶん実際に使った台本をありのままに再現しようとしたんだと思う。で、みると、促音の「っ」とか、拗音の「ゃ」「ゅ」「ょ」とかが、大きな「つ」「や」「ゆ」「よ」で印刷されている。このドラマの脚本というきわめて個別的な事例であるが、1977年時点でも、こんな表記法がとられていたんだな。それを知ったのが、僕にとっての新情報であった。
久しぶりのブログ書きはこんなところ。
■テレビドラマ「図書館戦争 BOOK OF MEMORIES」をみた。
「図書館戦争 BOOK OF MEMORIES」(2015年)をDVDで視聴した。レンタルショップでたまたま本作を目撃したからだ。
実は僕は「図書館戦争」の映画第1作《LIBRARY WARS》をDVDで視聴している。いま気がついてみると、僕はそのときにその感想記事をブログに掲載していなかったようだが、それは決してつまらなかったからではない。作品を構成する要素の寓意などについてなにかと問題にしうるかもしれないけれど、そうしたことのいくつかについては、あえて言及するのも恥ずかしいなぁと思うこともあって、語るつもりはなかったし、今もやはり、いまさらなにを…と思うから、語らない。
今回テレビドラマとしての本作《BOOK OF MEMORIES》を視聴したのは、映画第1作がおもしろかったからであるし、ジャケットに土屋太鳳さんがいたからである。とくにファンであるとかなんとかいうのではなく、ただなんとなくなのだけれど、とにかく、第1作がおもしろかったから、続きをみてみようかな、と思ったのだ。
で、感想は…
おもしろかった。
作品を読まないで、みないで、理解しないで、ほんのわずかな一片をもって、おおきな批判をするという風潮が、あるいは、人の心に寄り添ったつもりの独りよがりを自分勝手に正当化してしまう風潮が、それに対する価値判断としてのイデーを制作者がどこまで意識した結果であるのか不明ではあるが、とにもかくにも素材のひとつとしてひろいあげられていることが興味深かった。そういう素材が現実にあるのはおぞましいから、いかにフィクションとしての映像作品であるとしても、みていると、イヤになるのだけれど、それでも、そういうのがエンターテインメントのわくのなかにうまくおさめられていたと思う。岡田准一演じるところの王子さま・堂上と榮倉奈々演じるところの笠原のやりとりも楽しくて、本作の視聴は僕にとってなかなかよい時間であった。
なによりも、土屋太鳳さん、キラキラしているなぁ… すごくよかった。
彼女がNHKの朝ドラヒロインであることは、さすがの僕も知っている。半年にわたる朝ドラの放送も、トータルで1時間ぐらいはさすがの僕も目にしたと思う。昼過ぎのまったりしたトーク番組に彼女が出演したことがあって、事前にはまったくしらず、そのときたまたまテレビがついていて、ながら見したこともある。だから、彼女は、名前とその動く姿とが一致している、僕にとって数少ない最近の芸能人の一人である。
……という前置きはともかく、本作の太鳳さん、キラキラ、キラキラ、キラキラ… 輝いていたよ。
本作視聴後、インターネットで検索して、本作はごく最近放送されたものであることを知った。映画第2作が存在することはDVD収録の予告編で知ったが、本作はその映画につながるエピソードを盛り込んだもので、「ドラマ特別企画」と銘打った一種の宣伝ドラマであったようだ。宣伝であろうとなんだろうと、本作はこれはこれで完結した内容をもつと思う。
つぎに公式サイトのリンクをはっておく。
ドラマ特別企画『図書館戦争 ブック・オブ・メモリーズ』|TBSテレビ
http://www.tbs.co.jp/toshokan-sensou-drama/
これによると、本作が放送されたのは今年(2015年)10月5日(月)21時から。
(DVDはディレクターズカット版らしく、100分ほど)
で、いま公開されている映画第2作の副題は《THE LAST MISSION》。
僕は映画第2作をDVDで視聴することになると思うけれど、本作は(劇場にいってもいいな)と感じさせてくれた。ともかく僕は《THE LAST MISSION》をかならず視聴する。
以上。
■吉田秋生『海街diary』
吉田秋生『海街diary』(小学館フラワーズコミックス、2007年~)について、感想めいた覚え書きをしるすことにした。
僕が本作を読んだのはだいぶ前のことであるが、感想の表明がしづらいと感じたから、ブログに感想記事をのせようともしなかったし、本作を読んだ事実をtwitterなどにたれながすこともしなかった。
また、本作を原作とする同名映画を僕はみていない。同名映画が数年後にも人々の記憶に残っていて、語られることがしばしばであるような状況であれば、なにかのきっかけに視聴するかもしれないが、今のところ、同名映画を視聴する心づもりは僕にはない。僕は原作がとても良いと感じたが、同一の物語の世界にわざわざ別の媒体の表現で接する必要性をそもそも僕は感じていない。原作はひとつの独立体である以上、僕はその独立体のそとに出る必要を感じない。あえていえば、原作の舞台となった地域を実写映像で知覚することができるというのが映画をみるメリットであろうが、そもそも原作と同じ世界を同名映画がテーマ・イデーを維持しつつ表現しえているのか、不明である(こころもとない)今、もし映画をみてガッカリするようなことがあったらイヤだという気持ちが僕には強い。
原作を語るには原作があれば十分である。再読して、やっぱり本作はとても良いと思った。原作を再読したのを良いきっかけとして、おもったことをいくつか書き連ねておくことにした。再読した今もなにか《論じる》ということはできないので、覚え書きにとどまる。
(『すずちゃんの鎌倉さんぽ』と『すずちゃんの海街レシピ』は所有しているが、まだ目をとおしていない。書名をここにしるすために、いまやっとはじめてページをひらいた…)
(それと、いま同名映画の予告編映像をみたが、この短い映像からもイヤな予感がした…)
やはり、本作の衝撃は第1話「蝉時雨のやむ頃」にある。すずが、姉のひとことをきっかけに、わっと泣き出す。泣き出さずにはいられないという事態にいたる諸々の出来事の描写と、泣き出した瞬間の真っ白な無音の背景の描写が見事すぎる。とにかく見事。これだけで(いいものをみさせてもらった)という気持ちになる。
第1話は無料でためし読みができるから、版元の公式サイトへのリンクをはっておこう。
「海街Diary」吉田秋生 http://flowers.shogakukan.co.jp/rensai/umimachidiary.html
で、その後、本作は、どうにもしようがない出来事に見舞われる人々を、ありきたりの価値観で安易な裁断をすることなく、えがきだしていく。安易な価値観での裁断をしないというのが本作の見事さだと思うのだが、それがあらわれるのが、たとえば、次のようなところ。
兄は言いました
おふくろは季和子を許さないことで筋を通そうとし
季和子は許されないことであいつなりに筋を通そうとしたんだろう
だからおまえもわかってやれ――と(第5巻、p.35)
依怙地でもなんでもよい。その結果どのように当人が苦しもうと、しかたがないではないか。外部からの所与にせよ、内部からの所与にせよ、なんらかの所与性にしばられずにはいられない、一定の履歴をもつ個人の苦しみをうまく表現しえているのが本作だと思う。
実は僕が再読するにあたって、そこにいたるまでの出来事の展開をもっとも再確認したかったのが次の箇所。食堂のおばちゃんの遺言状にまつわるやりとり。
あなたは自分の意志をとおしてそれでいいかもしれない
でも残された人間はあなたがいなくなった後も世間の中で生きていかなければならないんです
そのお金は他人の憶測や妬みをかうのに充分な額です(第6巻、p.69)
どたん場でおばちゃん考え直してくれよった
金のことでおばちゃんにそこまで言える者はあんたしかおらへん
おおきに おかげでミドリ一家を傷つけんですんだ
とんでもありません
二ノ宮さんのお役に立つどころか
ひどいことを言って傷つけてしまいました
申し訳ありませんでした(第6巻、p.71)
人の人生をかえる介入をすることへの覚悟がここにある。 個人的体験ながら、未来を見通すことのない、浅薄な介入ごっこに辟易することが多いなかで、この人間模様の描写には涙が出てくる。初読時も、再読時も。
以上は3週間ほど前に書き連ねておいた文章である。いま読み直してみて、あいかわらず僕は衒学的なものいいをするなぁと思った。すごく空虚だ。でも、具体的なことを情緒的に表現するつもりは今の僕にはない。だから、このままこの記事を掲示しておくことにする。(2015年11月1日早朝 しるす)
■住野よる『君の膵臓をたべたい』(双葉社)
住野よる『君の膵臓をたべたい』(双葉社、2015年6月)を読んだ。
まずはじめに、いくつかことわりがきをしておく。
僕自身は石川達三のような濃厚かつ重厚な心理描写の作品を好む。そして、本作を読む前の数日間、僕はほかならぬ石川達三の『風にそよぐ葦』を読んでいた。
なぜ僕が本作を読んだのか、これまで僕は類似のケースでその経緯を書くことが多かったが、今回はこの点への言及はしない。
僕は本作を、だらけることがほとんどなく、読み終えた。
以上はことわりがき。以下、初読を終えての感想めいたものを記録しておく。
うえのことわりがきで、「だらけることがほとんどなく」としるしたが、本書の半分ごろまでは(かるいなぁ)と思って、数字で区切られたパラグラフごとに本をとじて、ほかのことを考えたりしていた。はっきりいって「かるい」。石川達三などと比べるのが間違っているのかもしれない。たぶん書き手が若いんだろうとも思う。
ただ、なかなか良い着眼点で人物を造形していると思ったのは、たとえば、次のような点。最初のほうのページを繰り直して、目についたところをひくと…
(本書を読んだ人、本書を手もとに置いている人なら、すぐにわかる程度の短い引用にとどめる。必要な引用としては短すぎるのは承知のうえ)
「……………………ああ、そう」
「え! それだけ? なんかこう、ないの?」(p.20)
「いや、私も君以外の前では言わないよ。普通はひくでしょ? でも、君は凄いよ。もうすぐ死ぬっていうクラスメイトと普通に話せるんだもん。私だったら無理かもしれない。君が凄いから私は言いたいこと言ってるの」(p.31)
病気になったのも、もうすぐ死ぬというのも、人生を構成する日々のひとこまであり、それ以外の無数の出来事、出来事の群れと差違はない。差違があると考えることもあれば、差違がないと考えることもあるが、このどちらを選ぶかにも、価値判断の優劣、妥当性の点で差違はない。それに外側から勝手な意義付けを与えられることの迷惑さに思いをはせたことがない人にはわからないことであるかもしれないが、そうした価値判断から距離をおき、もろもろの出来事の軸をなす個別的な主体に最後まで向き合ってほしいと願う人がいる。そうした1人の女の子とはからずも向き合うことになった男の子の物語である。
だれかに自分の気持ちを投影して自分で満足していることの身勝手さを自覚することのないような人には、上述したような人が間違いなく存在するという事実を、本書のような小説の虚構の世界から学んでほしいと思う。そういう点では、本書は多くの人に読んでほしいと思う本である。
たぶん書き手はあまりにも若すぎる。が、本書はそれなりのしかたで現実をうつしとったものとしてよい作品であると思った。
僕が小説を語ろうとするとどうしても衒学的になってしまうが、ひとつだけ、本書の構成の良いところを紹介してみたい。ネタバレになるかもしれないが、未読の人がこれを知ったからと言って、本書の本質的なところとの向き合いかたがかわるわけがないから、書いても良いだろうと思う。ただ、細かく書きすぎると、衒学さがでてきて、自分でもイヤになる。だから、ほんのさわりだけ。
- 《君の爪の垢を煎じて飲みたい》
- 《君の膵臓を食べたい》
このふたつのフレーズがこの順番で二人の人間の意識にながれていった。これがすごくよかった。
ほかにもいくつかの場面、会話が別の時間、別の空間に相似形であらわれる。たぶん、映像化にむくのだろうと思う。僕は本作の映像化は望まないが、本作の構成におけるこのような相似形を見逃さない読み手には、これらを本書の登場人物の願いの、単なる思い込みではない実現形の描写として位置づけて本作の良さを根拠のあるかたちで語ることができるだろう。
そういう構成を本作にあたえた書き手は、それなりに考え抜いて本作をしあげたのだろう。そういう点でも本作はよいと思った。
抽象的な文言の締めだけれど、いまは以上。
■(「国語辞典における「シャコンヌ」と「パッサカリア」」あらため)各種辞典における「シャコンヌ」と「パッサカリア」【追記あり】
三省堂の新明解国語辞典をめくっていたら、「シャコンヌ」が見出しにあがっているのに気がついた。ためしに手近にある国語辞典をみくらべてみたら、なかなか興味深かった。「シャコンヌ」をひいたら、「パッサカリア」も調べたくなる。ますます興味深い。
以下、たまたま僕の手元にあった国語辞典から「シャコンヌ」と「パッサカリア」の項を引用してみる。
『三省堂 新明解国語辞典 第7版』(2012年2月発行、2014年12月第3刷)
シャコンヌ[2]〔フ chaconne〕三拍子のゆるやかな、スペイン風のダンス曲。
パッサカリア[4]〔イ passacaglia=街頭通過〕もとスペインの民俗舞踊の曲で、低音部の主題が変奏曲風に繰り返し演奏される三拍子の落ち着いた曲。
『三省堂 国語辞典 第7版』(2014年1月発行)
シャコンヌ(名)〔フ chaconne〕〔音〕三拍子(ビョウシ)のゆるやかなダンス曲。
パッサカリア(名)〔イ passacaglia〕〔音〕スペイン起源と考えられる、三拍子(ビョウシ)のゆるやかな民族舞曲(ブキョク)。
『学研 現代新国語辞典 改訂第5版』(2012年12月発行)
シャコンヌ 四分の三拍子のゆるやかな変奏曲。スペインの舞曲を起源とし、一八世紀のバロック期に流行した。▽フランス chaconne
パッサカリア スペインの舞曲から出た、三拍子のゆっくりした曲。低音部に主題のある一種の変奏曲。▽イタリア passacaglia
『岩波 国語辞典 第7版新版』(2011年11月発行、2014年1月第3刷)
手元に音楽用語辞典がないのが残念だ。
(以上、2015年1月23日しるす)
(以下、2015年1月28日しるす)
『研究社 リーダーズ英和辞典 初版』(1984年発行、1995年第23刷)
chaconne [(音声記号省略)] n シャコンヌ 〔(1)スペイン起源の古いダンス (2)3拍子の変奏曲の一〕. [F<Sp.]
passacaglia [(音声記号省略)] n 〔楽〕パッサカリア 〔(1)古いイタリアまたはスペインの舞曲 (2)3拍子の静かな変奏曲 (3)パッサカリアに合わせた舞踏〕. [C17 passacalle<Sp.=step (i.e. dance) in the street]
シャコンヌに音楽用語であるという印がついていない。
『研究社 露和辞典』(1988年発行、1996年第11刷)
чакона シャコンヌ〔古いスペイン舞曲〕;その曲.
пассакалия | пассакалья 〔音〕パッサカリア〔3拍子の荘重なイタリア舞曲〕.
おや? ここでもシャコンヌには音楽用語であることの印がついていない。パッサカリアにはついているのに。
『三省堂 ウィズダム英和辞典 第2版』(2007年発行、2008年第6刷)
chaconnne、passacagliaともに見出しなし
『小学館 プログレッシブ英和中辞典 第5版 』(2012年発行)
chaconne /(音声記号省略)/ [名] ((複)~s)〔時にC-〕〔楽〕シャコンヌ(◇スペイン起源の古い舞踏;その曲).
passacagliaは見出しになし
この2つの英和は、上に引用した国語辞典よりも、みずからのうちにとりこんでいる単語の数は多いはずなのにな。すこしさびしい。
『旺文社 ロワイヤル仏和中辞典 第2版』(2005年発行、2014年重版*1)
chacone, chaconne /(音声記号省略)/ (<esp.) n.f. 〔楽〕シャコンヌ[南米起源で、17世紀初頭にスペインに伝わったダンスで、その後イタリア、ドイツで器楽変奏曲の一形式として流行したバロック音楽の重要な器楽形式]
passacaille /(音声記号省略)/ (<esp.) n.f. 〔舞〕〔楽〕パッサカリア[17世紀に流行したスペイン起源でゆるやかな3拍子の舞踏(曲)]
シャコンヌ南米起源への言及がみられる。とくにシャコンヌに関しては音楽用語としての専門的な説明を強く打ち出している。パッサカリアは舞曲であることをしめす印をあたえられているのにたいして、シャコンヌには舞曲の印がない。シャコンヌははっきりと舞曲性をうしないっているのか。
以下2つはおまけ。
『NHK日本語発音アクセント辞典 新版』(1998年発行、2006年第30刷)
シャコンヌ chaconne 〔フ〕
パッサカリアは見出しなし
『三省堂 新明解日本語アクセント辞典 第2版 CD付き』(2014年発行)
この2つのアクセント辞典をくらべたとき、『NHK~』には「シャコンヌ」があるのに『三省堂~』にはないのは、『三省堂~』が《東京語》を対象にしていることと関係があるのかな?
(以上、2015年1月28日しるす)
*1:第何刷かは不明
■ココログのデータの再インポートと記事の再整理を終えて
Movable Typeではひとつの記事の終了を信号する記号として「-」を8個連ねた線を使っているようだ。僕はこの線をココログで記事の本文中に内容の区切り線として使ってしまっていた。ココログのデータをMovable Type形式ではてなブログにインポートするさいに記事が途中で断ち切られ、それと同時に一部のコメントがはてなブログに吸いこまれないという事象が生じたのはそのためであると思われた。
そこで、ココログからエクスポートしたMovable Type形式のデータに手をくわえて、再度はてなブログにインポートしなおした。すくなくともコメントについてはすべてはてなブログに吸いこまれたことが確認できた。最初のインポート時の不具合の原因についての僕の推測は正しかったようだ。僕の作業も無駄ではなかった。無駄ではなかったけれど、ココログのすべての記事をインポートしなおしたものだから、ダダもれ日記類もすべて削除しなおすという手間をかけることになった。
最初のインポート後の記事の削除の基準と2度目のインポート後の記事の削除の基準はほとんど同じにしたつもりなのに、いやむしろ削除の基準をゆるめたかもしれないのに、残った記事の数は2度目のほうが少なくなっていた。どうしてかなぁ。不思議だ。まぁ、ココログからエクスポートしたMovable Type形式のデータは消さずにどこかに保存しておく予定でいる。なんかあったら、かつて書いた記事をそのまま復活させることはできる。だから、あまり気にしない。そもそもどんな記事を僕が書いてきたのか僕自身が忘却しているんだから、予定外の削除があったとしても、僕自身が気づかないにちがいない。削除に予定外もなにもない。
それはともかく、うえでMovable Type形式のデータに手をくわえたとかいたが、それは、記事の本文中で僕が区切り線として使ってしまっていた「-」の連なりを別の記号に置き換えたり、削除したり、といった作業である。
ココログで僕は「-」の連なりを、大きな区切りの箇所と小さな区切りの箇所との区別をすることなく、そのときそのときの気分で使っていた。そんな区切りの箇所のほとんどすべてを今回の作業では「* * *」のセンタリングに置き換えた。この「* * *」は内容上大きな区切りで使われることが多いように思うが、この作業では大きな区切りであるか小さな区切りであるかをほとんど考慮せずにほとんどすべてを機械的に「* * *」に置き換えたので、不体裁がこのブログに満ちることになったと思う。こうした不体裁の再整理はいつかやらなければいけないとは思うけれど、今すぐにやる元気はない。
それと、僕はココログでセンテンスごとに改行する記事をたくさんかいている。そうした改行もはてなブログでは体裁が悪く感じる。これもどうにかしたい。が、これもすぐにやる元気はない。体裁を整える作業をするのなら、引っ越しにともなって生じた内部リンクの混乱にも同時に対処することになる。写真のアップロードのしなおしも必要だし… 作業着手への精神的なハードルが高い。
以上、このブログの記事に散見される不体裁についての事情説明と言い訳として、このことをここに書きとめておく。